「やれやれ、祭りのごちそうか。
まあ、やるがいい」とその男はがさつな声で言った。「おやおやまあ」と、バルブレンのおっかあはびっくりしてさげなべを下に置き、声をあげました。
「まあジェローム、おまえさんだったの!」
そのときおっかあはわたしの腕を引っ張って、戸口に立ったままの男のところへ連れて行きました。
「おまえのとっつぁんだよ」
養父
おっかあはご亭主にぎゅっと抱きつきました。
わたしもその後ろから同じようにしようとすると、男は杖を突き出してわたしを制止しました。
「なんだ、こいつは……おめえ、いま何て言ったっけな」
「ええ、そう、でも……本当はそうではないけれど……そのわけは……」
「ふん、本当なものか。本当なものか!」
男は杖を振り上げたまま、わたしのほうへ歩いてきました。
思わずわたしは後ろへ飛び下がりました。
ぼくが一体何をしたというのだろう。
何の罪があるというのだろう。
わたしはただ、抱きつこうとしただけなのに。
わたしがおずおずと男の顔を見上げると、男はおっかあの方を向いて話し始めました。
「ほう、感心に謝肉祭のお祝いをするってわけか、まあいいだろう。おれは腹がペコペコだ。晩飯は何のごちそうなんだ」と男は言いました。
「どら焼きやりんごの揚げ物をこしらえているところですよ」
「そうらしいな。だが、何里も遠い道を歩いてきた人間に、まさかどら焼きごときでごまかすつもりではまいまい」
「ほかに何にもないんですよ。なにしろ、おまえさんが帰ってくるなんて思っていなかったからね」
「なんだ、何にもないだと。夕飯には何もないのか?」男は台所を見回しました。
「バターがあるぞ」
男は天井を仰ぎました。
いつもなら塩漬けの豚肉がぶら下がっていたフカシ(金具)が目に入りましたが、そこにはもう長らく何にもかかっていませんでした。
ただ、ネギとニンニクが二、三本、縄で縛ってつるしてあるだけでした。
「ネギがある」と男は言い、大きな杖でその縄をたたき落としました。
「ネギが四、五本にバターが少しあれば、立派なスープができるだろう。どら焼きなんぞは引っ込めて、ネギを鍋でいためろ!」
なんと、せっかくのどら焼きを鍋から出してしまえというのです。
それでもバルブレンのおっかあは一言も言い返さず、ご亭主の言うとおりに急いで仕事に取りかかりました。
ご亭主は炉端の椅子に腰を下ろしました。
わたしは男が杖の先で追い払ったその場所から、一歩も動くことができませんでした。
食卓に背中を向けたまま、わたしは男の顔を見つめました。
男は五十歳くらいで、意地悪そうな顔つきをした、ごつごつした荒々しい男でした。
頭にけがをしたことがあるのか、首が少し右の肩のほうへと曲がっていました。
身体が不自由なそのせいで、男のいっそう険しい人相が引き立っていました。
バルブレンのおっかあは、再び鍋を火にかけました。
「おめえ、それっぱかりのバターでスープをこしらえるつもりか」男はそう言いながら、バターの入った皿をつかみ、なんと中身をすっかり鍋にあけてしまいました。
これでバターはなくなってしまいました……つまり、もうどら焼きも作れなくなったのです。
もしこれが別のときだったら、こんな災難に遭ったとき、どんなにくやしかったかしれません。
けれど、わたしはもうどら焼きやりんごの揚げ物のことなど考えていませんでした。
わたしの頭をいっぱいに満たしていたのは、こんなに意地の悪い男が、いったいどうしてわたしの父親なのだろうかという疑問でした。
「ぼくのとっつぁん」――うっとりと、わたしはその言葉を心の中で何度も繰り返しました。
父親というものがいったいどんなものなのか、これまで真剣に考えたことはありませんでした。
ただぼんやりと、それは母親の声が少し大きいくらいのものだろうと考えていたのです。
ところが、いま目の前に天から降ってきたこの男を見ると、わたしはいやでたまらず、おそろしくて仕方がありませんでした。
わたしが男に抱きつこうとしたとき、男は杖でわたしを押し退けました。
なぜだろう?
もしこれがおっかあなら、抱きつこうとする子を突き飛ばしたりはしない。
おっかあはいつだって、わたしをしっかりと抱きしめてくれたのに。
「おい、いつまで木偶の坊(でくのぼう)みたいにつっ立っているんだ。来て、皿でも並べろ!」と男が言いました。
わたしは慌てて言われたとおりにしようとして、危うく倒れそうになりました。
スープができ上がりました。
バルブレンのおっかあはそれを皿に分けました。
すると男は炉端から立ち上がり、食卓の前にどっかりと腰を下ろして食べ始めました。
そして、食べる合間合間に、じろじろとわたしの顔を睨みつけるのでした。
それが気味悪くて、わたしは食事が喉を通りませんでした。
わたしも横目で男の様子を窺いましたが、向こうの目とパッと目が合うと、慌てて目をそらしてしまうのでした。
「こいつはいつも、これくらいしか食わないのか」と、男はふいに尋ねました。
「きっと、おなかがいっぱいなんですよ」
「しょうがねえやつだなあ。これだけしか食えねえなんてさ」
バルブレンのおっかあは、それ以上は話をしたがらない様子でした。あちらこちらと働き回って、ご亭主のお給仕ばかりしていた。
「てめえ、腹は減らねえのか」
「ええ」
「うん、じゃあすぐとこへはいってねろ。ねたらすぐねつけよ。早くしないとひどいぞ」
おっかあはわたしに、なにも言わずに言うとおりにしろと目で知らせた。
しかしこの警告を待つまでもなかった。
わたしはひと言も口答えをしようとは思わなかった。
たいていのびんぼう人の家がそうであるように、わたしたちの家の台所も、やはり寝部屋をかねていた。
炉のそばには食事の道具が残らずあった。食卓もパンのはこもなべも食器だなもあった。
そうして、部屋の向こうの角が寝部屋であった。
一方の角にバルブレンのおっかあの大きな寝台があった。
その向こうの角のくぼんだおし入れのような所にわたしの寝台があって、赤い模様のカーテンがかかっていた。
わたしは急いでねまきに着かえて、ねどこにもぐりこんだ。
けれど、とても目がくっつくものではなかった。
わたしはひどくおどかされて、ひじょうにふゆかいであった。
どうしてこの男がわたしのとっつぁんだろう。
ほんとうにそうだったら、なぜ人をこんなにひどくあつかうのだろう。
わたしは鼻をかべにつけたまま、こんなことを考えるのはきれいにやめて、言いつかったとおり、すぐねむろうと骨を折ったがだめだった。
まるで目がさえてねつかれない。こんなに目のさえたことはなかった。
どのくらいたったかわからないが、しばらくしてだれかがわたしの寝台のそばに寄って来た。
そろそろと引きずるような重苦しい足音で、それがおっかあでないということはすぐにわかった。
わたしはほおの上に温かい息を感じた。
「てめえ、もうねむったのか」とするどい声が言った。
わたしは返事をしないようにした。
「ひどいぞ」と言ったおそろしいことばが、まだ耳の中でがんがん聞こえていた。
「ねむっているんですよ」とおっかあが言った。
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