初級翻訳・山彦乙女 第22話

山彦乙女

「ここはどこ? この橋の名前はなんというの?」
駕籠の中から、すぐ脇に付いている和助へと、次から次へとしつこく質問を浴びせかけた。
槍持ちの供を連れて馬に乗った侍などが通りかかると、あれはどれくらいの身分なのだろうか、幕府の直参だろうかそれとも家来(陪臣)だろうか、これから旅に出るところなのか、それともただの外出なのだろうか――。
そんなふうに、花世は飽きることもなく次々と疑問をぶつけた。
「あら、ここが日本橋なのね! ねえ、ちょっと駕籠を止めて見せてちょうだい」
「どうなさるおつもりですか?」
「見てみるのよだって、日本橋なんだもの」
「お帰りの際にご覧になってください。今はそんな暇がございません」和助は少し厳しい口調で言った。「それから、もう少しお静かなさってください。通行人の方々にみな聞こえてしまいます」
そう言われた瞬間、花世は彼よりもさらに厳しい声で、駕籠を止めるように命じた。
駕籠がぴたりと止まった。
「私を下ろしなさい!」
すっかり機嫌を損ねてしまったらしく、容赦のない厳しい口調で、その声も少女らしからぬほど激しかった。
駕籠から下りると、花世はスッと外へ出た。
そして、中から敷物をひっぱり出して駕籠の屋根の上に置き、その上へと身軽によじ登ると、なんと、横向きにちょこんと腰を掛けてしまったのだ。
「さあ、お行きなさい!」
これはさすがにやりすぎだろう、やりすぎの度を超えていると言えるかもしれない。
年頃の、しかもかなり目を引くほどの美少女が駕籠の屋根の上に乗ったまま行進するなどというのは、いかに天下の大江戸とはいえ、そうそう例があるものではない。
日本橋の真ん中の出来事とあって、たちまち往来の人々の視線が彼女に釘付けになった。
人々はみな足を止め、呆れ返る者もいれば、中にはこれから何か見世物の芸当でも始めるのだと勘違いした向きもあったらしい。
人々がやがやと騒がしく群がり寄ってきた。
「乙女さま……!」
和助はすっかりうろたえてしまった。
駕籠かきの六尺たちもどうしていいか分からずまごつくばかりだったが、そこへ、登世の駕籠と一緒に少し先へ進んでいた柳沢家の侍2人が、慌てて駆け戻ってきた。
それを見た和助は、もうどうしようもないと観念し、いいから駕籠を進めろと六尺たちをせき立てた。
花世がこうと決心したら、人間がいくらジタバタしても無駄なのである。このうえ侍たちがつまらない小言でも云うと、どんなふうに曲りだすかしれない。
花世には柳沢の侍など眼中にないし、むしろ軽侮しているくらいである。
「どうぞ、なにも仰しゃらないで下さい」
 駆け戻って来た侍たちに、和助はこう囁いた。
「すぐ飽きますから」
 駕は行進を始めた。
往来の左右には人垣ができ、横丁からとびだして来る者もあった。
花世は駕の上で、さも涼しげに、小扇で日をよけながら、これらの騒ぎを眺めおろし、ゆうゆうと揺られていった。
心志相反

一

 一日延ばしに延ばしていた谷町への訪問を、半之助はついに実行しなければならなくなった。
母にせがまれたばかりでなく、役替えが決まったのと、それを聞きつけたのだろう、冲左衛門から呼び出しの使いが来たのである。
――要談の半分は済んだようなものだ、半之助はこう思った。
これまでの冲左衛門なら、当然ずかずかと押しかけて来るはずだ。
使いをよこすということは、こちらの事情がある程度わかっており、それについて機嫌を損ねているという意志表示であるとも考えられる。
――多少は不愉快なことも言われるだろうが、そのほうがはっきりカタがついてかえっていい。
彼はそう腹をくくった。
「縁談のことはなるべく避けてくださいね」出がけに母が言った。「お断りするにしても、もう少し経って、折を見てからになさらないと」
「なるべくそうします」半之助は供を連れずに出かけた。
その日は七日続く休暇の初日に当たり、午後から山村座の茶屋で仲間と会う約束になっていた。
だからまず、すぐ近くの赤坂新町にある青山の家を訪ね、都合がよかったら少し早めに木挽町へ来るように伝えた。
「谷町の件はすぐ済むと思うし、出直すのも面倒だからそのまま行くつもりなんだ。できたら早く来てくれないか」
「いよいよ正面衝突かい」主馬はにやっと笑った。「念を押すまでもないだろうが、諸事、穏便に頼むよ」
「どうなることやらね」
「冗談抜きで、ぜひ頼むよ」
「しかし先方が穏便にしておかないかもしれないぜ」
「そのときはだな、うう――」
 ふと主馬はそそのかされるような顔をしたが、すぐに思い直した様子で、「そんなとき、忍耐の足しになるいい話があるんだ。たった今聞いたばかりの素晴らしい話なんだけど、あとで聞かせてやるよ」
 こう言って、惜しそうに舌打ちをした。
谷町へ行ってみると、はたして取次の侍まで態度がよそよそしくなっていた。
通された客間も、一番手前の八畳間で、いつもの上等な客間ではない。さらに驚いたのは、お茶を運んできたのが小間使いだったことだ。
武家では、客の接待に召使いを出すことはない。
玄関の取次は言うまでもなく、座敷の給仕も家士や家族の者がするのが決まりである。
したがって、そのとき小間使いにお茶を運ばせたのは、明らかに侮辱であり、冲左衛門の怒りの前触れに違いなかった。
――これは相当荒れるぞ。
彼はそっと微笑んだ。
四半刻ほど待つうちに、庭のほうから派手な女の嬌声が聞こえてきた。
その部屋からは中庭の端しか見えない。
向こうは赤土の崖で、庭は右へと広がっているが、ここからの眺めは、ひと跨ぎの芝生と鼻につきそうな崖だけだった。
女の声は右のほうで聞こえた。
それはいかにも嬌声という感じのきらきらした声だったが、しだいにこちらへ近づいてきて、やがてその狭い庭の中に一人の若者が現われた。
……それは五番町の遠藤千之助だった。
半之助はぼんやりと彼を見た。
そんなところにどうして千之助が現われたのか、まったく理解できなかったのだ。
「やあ、しばらく」
 千之助はこちらに気づくと、例の他人を馬鹿にしたような薄笑いを浮かべて言った。
「ご栄転だそうですね、お薬園だと言うじゃありませんか。やっぱり土を掘ったり肥やしをまいたりするんですか?」
 すべてを承知の上での嫌がらせである。
だがそこへ、この家の次女である佐枝が現われた。
つまり、あの派手な声の主は彼女であって、千之助を追ってきたのだろう。
半之助など見向きもしず、しかし十分に意識した様子で、「だめですわ、遠藤さま。あなたの番じゃございませんの。ねえ、早くいらしって」
 ねばねばするような甘い声で、しかも千之助の腕を取り、しなしなと体をくねらせた。
気の強い、はきはきとした彼女にはこれまで一度も見たことのない、なまめかしいしぐさである。
「しょうのない甘えん坊だな」
 千之助は眉をひそめながらも、極めて親密な態度で、佐枝に引かれるまま庭の向こうへ去っていった。
「どういうことだ」
 半之助は思わず呟いた。

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