ぼくの息は体の中で温められているから、この部屋のふつうの空気よりも温かいはずなんだよ。
その温かい息を吹きかけてやったのに、きみは『寒い』って言ったじゃないか。
どうしてそんなふうになるのか、理由がわかるかい?」
「だってそれはさ、息が長〜い筒の中を通って外に出るときに、この部屋の空気で冷やされちゃうからだよ!
でなきゃ、寒いはずがないもん」
「ふーん、そうかねえ。
それじゃあ、もう一つ実験を見せてあげよう!」
高橋さんは立ち上がると、部屋の柱にかけてあった寒暖計を取り外してきました。
「いま十五度だ。
この部屋の空気の温度はちょうど十五度なんだよ。
さて、きみに質問だ。
ぼくがこの紙の筒を使って、寒暖計の水銀の玉に向かって息を吹きかけたら、中の水銀は上ると思う? それとも下ると思う?」
一太郎君はちょっと考えてみましたが、やっぱりほかに答えようがありません。
「下がる……でしょ」
「どうして?」
「だって、息を吹きかけたら寒くなるんでしょう?
だから、寒ければ寒暖計は下がるに決まっているもん」
「よし! それじゃあ、実際にやってみよう」
高橋さんは再び紙の筒を口にくわえ、寒暖計の水銀玉めがけて、ふーっ、ふーっと強く息を吹きかけました。
すると、これはどうしたことでしょう!
寒暖計の水銀は、下がるどころか、みるみるうちに十六度、十七度と、ぐんぐん上っていくではありませんか。
一太郎君は、ほんとうにびっくりしてしまいました。
高橋さんが何か手品でも使っているんじゃないかと思ったほどです。
「きみも自分でやってみるといい」
一太郎君は紙の筒を受け取ると、まず自分の手を吹きつけてみて、やっぱり寒いことをたしかめてから、さっきとおなじ強さで寒暖計の水銀玉に向かって息を吹きかけました。
でも、やっぱり水銀はどんどん上っていくのです。
水銀がもとの十五度に下がるのを待って、何度もくりかえしてみましたが、何度やっても結果はまったく同じでした。
一太郎君は、どう考えてもわけがわかりません。
「へだなあ……。
この部屋の空気より温かい息がかかっているんだから、そこだけ温かくなりそうなものなのに、どうして寒く感じられるんだろう?
ねえ高橋さん、いったいどうしてなの?」
「それはね、人間の皮膚には、いつも水分があるからなんだよ」
高橋さんは、ちょっとむずかしい話を切り出しました。
「えっ、水分ってなに?」
「夏になると汗をかくよね。
あの汗がどこから出てくるか知っているかい?
ぼくたちの皮膚には、目に見えない汗やあぶらが出る穴が、数え切れないほどたくさんあるんだよ。
これは学校の先生に教わったことがあるだろう?
冬だって、やっぱりその穴から水分やあぶらが出ているんだ。
すごく少なくて目には見えないけれどね。
だから、皮膚に強い風や息が当たると、そこにあった水分が一気に乾いてしまうんだよ。
急に水分が乾くから、だから寒く感じるというわけさ」
「急に乾くと、どうして寒いの?」
「『乾く』というのは、水が水蒸気になって空へ蒸発することなんだ。
これもきみは学校で教わったことがあるはずだよ。
庭に洗濯物が干してあるとき、かすかな煙みたいなもやもやが、洗濯物から立ちのぼっているのを見たことがないかい?
あれが水蒸気なんだ。
つまり、お日さまの熱の力で水が水蒸気に変わって飛んでいってしまうから、洗濯物が乾くのさ」
「それくらいのこと、ぼくなくたって知ってるよ!」
「ところでね、水が水蒸気になるためには、必ず『熱』が必要なんだよ。
熱がなくては、水は乾いていかないんだ。
これも知っているよね?
ぬれた布にアイロンをあてると、『ジューッ』と音がして水分が一気に蒸発するだろう? つまり、すぐに乾くだろう?
だから、水が蒸発するためには熱が必要なんだってことが、これでわかるよね」
「うん……!」
一太郎君は高橋さんの顔をまっすぐ見つめ、力強くうなずきました。なんだか少しずつ、わけがわかって来るような気がしたからです。
「すると、どういうことになるね。
手に息をふきつけると、そこの水分が急にかわく。
ところが、そのかわかすためには――つまり、水分が蒸発するためには熱がいる。
その熱はどこから出ると思うね」
「あ、わかった。
体からでしょう。
人間の体には熱があるから」
一太郎君は風をひいて、たびたび体温計で熱をはかっていたので、すぐそこへ気がつきました。
人間の体には三十六度何分の熱が、いつでもあるということを、よく知っていたのです。
「そうだ。
そうなんだよ。
僕らの皮膚の水分は、体の熱で、いつでも少しずつ蒸発しているんだが、息をふきつけると、そこだけ一ぺんにたくさんの水分が蒸発する。
そのためには、熱もたくさんいるので、息をふきつけられたあたりの皮膚の熱が、急に少くなる。
熱が急に少くなるので、部屋の空気より暖い息がかかっても寒く感じるのだよ。
ね、わかったろう」
寒い息で寒暖計の水銀がのぼった時には、なんだか魔法のような気がしたのに、わけをきいてみると、魔法でもなんでもないことが、よくわかりました。
こんなむずかしい問題がとけるかしらと思っていたのが、らくらくとけてしまったのです。
「風にふかれると寒いのも同じわけだよ。
君のいうように、つめたい空気が送られて来るということもある。
また、もう一つ、僕らの皮膚のまわりは、体温であたためられた、うすい空気の層でつつまれているのだ。
そこへ風がふくと、その暖い空気の層がふきとばされて、外がわの、つめたい空気が皮膚にふれるので、寒いと感じることがある。
まあ、いろいろあるが、今日は、おもに皮膚の水分の蒸発について説明したのだよ」
そういって、高橋さんは、なんだかへんな笑い方をしました。
「ところで、君が風をひいたほんとのわけを教えてあげようか」
「それは、お湯から出て、すぐ風にふかれたからでしょう」
「そうかい。
それじゃ君はこれまで、お湯から出て寒い風にふかれたことは、一度もなかったのかい」
高橋さんはまた、なんだか妙なことをいい出しました。
「そりゃ、そうじゃないけれど……」
一太郎君が、へんな顔をして、いいしぶりました。
「ね、そんなことは度々あったんだろう。
それだのに、さきおとといの晩にかぎって風をひいたのはなぜだろうね」
そういわれて、一太郎君もわけがわからなくなって来ました。
「まあ、風をひくわけもいろいろあるが、君の場合は、僕はこう考えるね。
さきおとといの晩、お湯から出ると大いそぎで服を着た。
少しでも早く北村君のところへ行って飛行機の相談がしたかったからだ。
ね、そうだろう。
だから君は、体をいつものようによくふかなかったんだ。
いいかげんにふいて、すぐ服を着たんだ。
え、そうじゃないのかい」
なるほど、その通りです。
高橋さんはまるで名探偵みたいです。
一太郎君がうなずくと、高橋さんはにこにこして、いいました。
「だから君の体には、いつもよりは水分が多かった。
水分が多ければ風にふかれて蒸発する分量も多いわけだね。
蒸発する分が多ければ、熱もよけいにいるわけだね。
そこで君はぞーと、寒気がして、風をひいてしまったというわけなんだよ。
初級翻訳・智恵の一太郎 第21話
智恵の一太郎
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