初級翻訳・桑の実 第4話

桑の実

青木さんの奥様は去年の暮れあたりから、坊ちゃんを青木さんのもとに預けたまま、牛込にあるご実家の方へ帰っていらっしゃるのだそうだ。
なんでも、かなり前からのヒステリーのような状態になってしまわれていて、いつも家でふさぎ込んでぶらぶらしていらっしゃるとのことだった。
「青木さんがあんなにおとなしくて、本当にいい方だからこそ、余計に見ているこっちが気の毒になってしまってねえ……。――まあ、どうせそのうち、どこからかいい奥さんをもらい直すことにはなるんだろうけれどさ」
「でも、今の奥様もお気の毒でございますね」
「それがね、言ってみれば奥様の方の強い希望で、いまちょっと離婚なさったような状態になっちゃってるんだから、何とも言えないんだよね」
そう言って、おかみさんは話を別の話題へとパッと変えられた。
どうやら、一筋縄ではいかないごちゃごちゃとした事情があるように見えた。
いま青木さんの家にいるおばあやというのは、青木さんが学生時代からずっと使っている古い付き合いの女性で、青木さんが外国に行っている間も、奥さんと二人で小さな坊ちゃんを守りながら留守番をしていたのだそうだ。しかし、今度はどうしても自分の息子のところへ戻らなければならなくなってしまったのだという。
青木さんは、亡くなられたここのご主人にとてもよくしてもらった恩がある方で、ご主人が亡くなられてからは、何かと本当におかみさんの力になって支えてくれている人なのであった。おかみさんもそんなわけで、青木さんのためならどんなお世話でも喜んでなさらなければなりませんでした。
かつておかみさんが女学生を預かっていらした頃に、二人の間に何かあるのではないかと、下宿している女生徒たちの間で噂されていたような話を聞いたこともありましたが、おかみさんの人柄をよく知っているおくみには、最初からそんなことが信じられるはずもありませんでした。
ただ、青木さんがお店にちょくちょく出入りしていらっしゃるのを見て、根も葉もないことを面白半分に言いたがっただけなのは明白でした。
青木さんにしても、あんなに堅実で真面目な方であるうえに、その当時にはちゃんともらい受けたばかりの奥様がいらっしゃったのですから。
「だけど、そのうちに都合よく代わりの人が見つかるかもしれないけれど、いよいよどうにもならなくなったら、十日かそこらの期間だけでも、おくみちゃんが行ってお手伝いしてあげるつもりでいてくれないこと?」
おかみさんは少し言いにくそうにそうおっしゃるのでした。
「特別難しいことは何もない人だから、ただご飯を作ってあげて、小さい子のお守りをしてあげればそれでいいんだもの。
――昼の間は坊ちゃんを連れて、いつでもお店の方へ遊びに来たっていいしさ。
それにさっきも言ったように、今はちょうど弟さんが入学試験を受けるために来ていらっしゃるから、あそこのお家だって夜になってもそんなに寂しくはないわよ」
「そうですね」
おくみは考え込みました。
「嫌なの?」
「いいえ。
ただ、私のようなもので役に立つかしらと思いまして。
――お勝手のことなんかも、本当に何もできないものですから」
「大丈夫よ」
もし青木さんがたった一人でいらっしゃるなら、若い女の人がお世話についているというのは、世間体に対しても何だか変なふうに見えるかもしれないけれど、そこにはちゃんとおとうとさんもいらっしゃるわけだし、そんなに心配しなくてもいいんだよと、おかみはおくみの気持ちになってそうおっしゃってくれました。
おくみは、次に働くところが決まるまでの間のこととしても、自分にとって都合がいいように思えました。
おかみさんがその旨をハガキでお知らせになると、青木さんは大変安心された様子でした。
それでも、できることなら手伝いに来てもらわずに済めば一番いいというお返事でしたが、二、三日経つと、やはりおくみが借り出されることになったのです。
おかみさんとおくみは、朝から支度をして、白い服を着た料理人の男が買い出しから帰ってくるのを待っていました。

四

おくみはおかみさんと二人で、山手線の小さな駅で電車を降りました。
おくみは以前、この電車で品川へ行ったときに、そのときに見えた工場の大きな赤い煉瓦の建物や、さっきの牛乳屋の牛がたくさんいた柵などを、この駅の目印のようにして通り過ぎた気がしましたが、実際にこのあたりへ降り立ったのはこれが初めてでした。
「もうここまで来れば、着いたようなものよ」
おかみさんは跨線橋を降りてしまうとそう言って、帯の間から切符を取り出されました。
駅を出てお互いに雨傘を開くその手に、おくみはおかみさんからいただいたお土産のハンケチ包みを持っていました。
いろんなお店などが並ぶ、場末らしい町筋を少しばかり歩いて、貧しい草花の鉢物がちょろちょろと並べられた、黒ずんだ家と、映画のポスターの下がった小さな床屋との間の狭い横町へ入ってから、そこを左の方へ曲がるまでの間は、汚らしい長屋のような家ばかりがごちゃごちゃと立ち並ぶ一帯でした。
やがて再び幅の広い通りに出ました。
二人は、粗末な貸家などがぽつりぽつりと建てかけられているような、草むらの多い寂れたところを近道して、小ぎれいな家々が並ぶ上品な通りへと出ました。
「まあ、珍しゅうございますこと、麦の穂が出ていますよ」
「きれいに作ってあるのね。
あの家のお庭の裏手になっているんだわ。
――ほら、あそこをご覧、水引草よあれは」
「あんなふうにして育てるんでございますかね。
こちらのお庭にも並べて植えてありますよ。
赤いお花が綺麗ですこと」
二人はそんな話をしながら、大きな木がたくさんある青々とした通りを歩きました。
おくみはこうして久しぶりに、ただぶらぶらとお散歩するために外へ出てきたかのように、目に入るすべての物に気が紛れるような、のんびりとした気分になっていました。
柔らかな五月の日差しも、心地よく二人の雨傘にしみ込んでいくようでした。
二人ともそれぞれに、ちょっとしたよそ行きの着物を着ていました。
おくみの、少し根の上がった日本髪や、帯の背中の結び方の格好などは、どう見てもきちんと整った、上品なお手伝いらしい女性に見えました。
おくみは、電車を降りてから自分がどこをどう歩いてきたのか、もうすっかり分からなくなっていました。
そこから間もなく、西洋人の名前が書かれた名札の出た、白いペンキ塗りの小さな平屋建ての西洋館の前を通って少し行くと、右手の杉垣が続くその中に、青木さんのお家のガス灯が見えてきました。
「ねえ、こぢんまりしたいいお家でしょう。
まわりの雰囲気もこんな感じだしね。
――あの二階が、青木さんがお仕事をなさる画室よ」
おかみさんはそう言って、先頭に立って木戸の門を開けられました。二階のこちらの側の窓には、ガラス戸の内側に白い布が引かれていました。
おくみは一歩遅れて雨傘を畳みました。
そこには青木さんのお名前が、黒いペンキで表札に書いてありました。

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