ワグナーの音楽が聴く人に与える重圧感は、休む間もなく音を大量に浴びせかけるような構成にもよりますが、一つには、こうしたギリシャ神話のような英雄主義や、逃れられない運命の苦しみという思想的な重みが加わっているからでしょう。
【家庭生活】
その頃、ワグナーの家庭は少しずつ崩壊に向かっていました。
ワグナーより四歳年上で、「美しくはあるけれど、夢のない現実的な女性」と言われた妻のミンナは、年を追うごとにワグナーとの間に、どうにも埋められない深い溝を作っていきました。
二人は結婚したその日からケンカばかりしていました。ワグナーがひどく貧しかった時期には、ミンナは裕福な男と駆け落ちしかけたこともありましたが、追放時代にはザクセンの王室に自ら出向いて、三度も夫を許してほしいとお願いしたこともありました。
しかし、そんなミンナは、かつてのモーツァルトの妻と同じように、死ぬまでワグナーを理解できませんでした。「リヒアルト(ワグナー)がそんなに偉いんですって? へえ……それって本当のことなの?」と他人に尋ねるほど、夫の才能に対して無理解だったのです。
ミンナは肺の病を患い、そのつらさを忘れるためにアヘンを吸うようになり、次第に疑い深い性格になっていきました。
ちょうどその頃、実業家ヴェーゼンドンクの若く美しい夫人マチルデが、夫に頼んでワグナーを自分の別荘に招きました。マチルデはワグナーの最も熱心なファンとして、毎日訪ねてきては彼の詩や音楽、哲学に触れました。
マチルデは美しく、そして賢い女性でした。
アルプスと湖を見渡せる別荘の書斎で、ワグナーと芸術について語り合うマチルデの姿は、たとえ本人たちに何のやましい気持ちがなかったとしても、ミンナの目にどう映ったかは言うまでもありません。
ミンナはとうとう、病んだ胸を抱えたまま、永遠にワグナーのもとを去りました。
離婚はミンナの希望でしたが、その後ワグナーが別れた妻に生活費を送り続けたとしても、知識のない病気の妻を一生支え抜くことができなかったことについては、非難されても仕方がないでしょう。
さらに、ワグナーはその後、友人であり愛弟子でもあったハンス・フォン・ビューローの妻で、リストの娘でもあるコジマと――正式な結婚ではありましたが――あまり褒められた形ではない再婚をしています。
ワグナーの女性関係における道徳観には、どうしても納得がいかない点がいくつもあったことは、否定しようのない事実です。
名作『トリスタンとイゾルデ』は愛の悲劇を描いた作品ですが、これはマチルデとの関係を暗示していると伝えられています。
それはさておき、許されてドイツに帰った後も、ワグナーは相変わらず世間の無理解や、手強い敵たちに悩まされ続けました。
何度も失敗や挫折を繰り返した後、一八六四年、ついに幸運が訪れます。バイエルン国王ルードウィッヒ二世の使者が、ワグナーのもとを訪ねてきたのです。
【最後の勝利】
招かれてミュンヘンへ向かったワグナーを、多くの敵や妨害が待ち受けていたとしても、国王の厚意によってルツェルン湖のほとりで静かに暮らし、若いコジマと結婚して、愛する息子ジークフリートが生まれました。可愛らしい名曲『ジークフリート牧歌』が書かれたのは、ちょうどその頃のことです。
ワグナーの戦いとは、彼の芸術に対する世間の無理解との戦いであり、古いしきたりにこだわる人たちとの戦いであり、同時に、利益だけを追い求める劇場との戦いでもあったのです。こうした頑固な敵が立ちはだかる中で、ワグナーは、自分の音楽を邪魔されずに演奏し、真に芸術を愛する人たちだけに届けるためには、理想の芸術の殿堂、つまり利益を追い求めない劇場を作るしかないと悟りました。
ワグナーは楽劇をひとつの「お祭り」として考え、その演奏を神聖なものとして守り抜くために、千人の同志を募ってバイロイトという場所に祝祭劇場を建てる計画を立てました。それはワグナーが六十歳になった、一八七三年のことです。
バイエルン国王ルードウィッヒ二世の支援を受けて劇場が完成したのは一八七六年。その年の秋、国王も自ら足を運ぶ中で、『ニーベルンゲンの指環』四部作が三回にわたり上演されるという、世紀の大イベントが実現しました。ワグナーがずっと夢見ていた楽劇の理想が、こうしてようやく形になったのです。
『ニーベルンゲンの指環』は、上演するだけで四日間もかかるほどの大作です。ギリシャ悲劇の精神を現代に蘇らせ、詩と音楽を完璧に融合させようとしたもので、宗教の領域にまで踏み込んだ音楽だと言われています。
その後、バイロイト劇場は有料で一般客を入れるようにもなりましたが、亡くなった後も妻であったコジマ・ワグナーが引き継ぎ、伝統ある祝祭として守り続けました。今日でも、世界中の音楽ファンにとっての聖地として、揺るぎない地位を築いていることは皆さんもご存知の通りです。
『パルジファル』を最後の傑作として残し、一八八三年、イタリアを訪れていたワグナーは、二月十三日にヴェネツィアで脳卒中に倒れました。ちょうど七十歳でした。
ヴェネツィアを出発してバイロイトへと向かった彼の棺は、国王からの使者や、ヨーロッパ中の芸術家たち、そして涙に濡れた多くの人々に迎えられました。盛大な葬儀が行われ、彼が愛した「ヴァーンフリート(平和の館)」の墓所に埋葬されたのは、一八八三年二月十八日のことでした。
最後に、ワグナーの音楽についての考え方と、彼が成し遂げた偉大な業績についてお話ししようと思います。
【大総合芸術】
ワグナーの考えによれば、すべての芸術は「音楽」を核にして一つにまとまるべきものでした。詩、絵画、演劇、彫刻などがすべて音楽と結びつき、ひとつの大きな総合芸術を作り上げること。そして、楽劇という形式こそが芸術の最高峰であると信じていたのです。
ワグナーの楽劇は、その神聖な理想を守るために、利益だけを求める商業的な芸術とは切り離し、祝祭として、芸術を愛する人々の支持によって運営されるべきだと考えていました。
ワグナーの楽劇へのこだわりは、並大抵のものではありませんでした。
これまでの歌劇(オペラ)が持っていた低俗さを避けるため、彼はまず詩との結びつきを非常に大切にしました。また、歌手たちが自分の技術を見せびらかすためだけの空っぽなアリアを廃止しました。その代わりに、壮大な音楽を背景にした美しい「語り(宣叙調)」を取り入れ、登場人物や道具、思想や環境などを「主導旋律(ライトモティーフ)」という短いメロディで表現しました。それらが複雑に絡み合い、変化していくことで、豪華絢爛な物語を作り上げたのです。
一生をかけた大作『ニーベルンゲンの指環』には、実に九十以上もの主導旋律が使われています。それらが交錯する様子は、まるで太陽の光を遮るほど巨大なタペストリーを見ているような壮観さでした。
不協和音の大胆な使用、中音域の響きの強化、楽器の組み合わせの新しい工夫など、音楽的な発明は数え切れません。
特に管楽器を複雑に重ねる手法には大きな特徴があります。
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