当時、チャイコフスキーは最初の交響曲第1番「冬の日の幻想」の作曲に打ち込んでいました。その仕事ぶりはとても注意深く落ち着いていて、非常に勤勉であり、飽きるということを知りませんでした。この素晴らしい習慣は、少年時代にお世話になったフランス人の家庭教師のおかげで身についたものです。チャイコフスキーは亡くなる一年前、南フランスで隠居生活を送っていたその老婦人を訪ねて、感謝の気持ちを伝えたこともありました。
「冬の日の幻想」が完成すると、チャイコフスキーはかつての先生たちであるアントン・ルービンシュタインやザレンバに見せて、大いに褒めてもらおうとセント・ペテルスプルクへ持っていきました。しかし、その夢と希望はあっけなく打ち砕かれてしまいました。二人は厳しい批評を浴びせ、「書き直さなければ、音楽協会のコンサートで演奏することはできない」と突き放したのです。チャイコフスキーの長い長い作曲家人生を貫く、悲惨な失敗の第一歩はこの出来事でした。
翌1867年、フィンランドの飢饉を救うためのチャリティーコンサートで、初めて自作の「下女の舞踏」を指揮することになりました。彼は極度に緊張してしまい、大失敗をしてしまいました。しかし、楽団員たちが曲をよく知っていたおかげで、なんとか大きな混乱には至らずに済みました。チャイコフスキーの指揮が下手なのは有名な話で、それから20年間、彼は二度と指揮棒を握らなかったほどです。晩年にはたまに指揮をすることもありましたが、他人の曲を指揮する時などは、体を不自然にねじ曲げて、どこか痛いところでもあるのかと思うような苦しそうな表情をしていたそうです。
チャイコフスキーの弱気な性格は徹底していました。拍手喝采を浴びていい気分になるなどとんでもないことで、自分に向けられる人気や褒め言葉さえも極度に怖がっていました。イタリアの歌劇が全盛だった当時のロシアで、チャイコフスキー初のロシア歌劇「ヴォイェヴェーダ」を上演するのはとても困難でした。結局、二流、三流の小さな劇場でようやく発表できることになったのですが、お人よしだったチャイコフスキーは、歌手に文句を言うどころか、出来栄えを批評することさえできないほど臆病で、「とにかく早く上演が終わってくれればいい」と祈るような気持ちで過ごしていました。ルービンシュタインはその稽古を見に来ましたが、あまりの頼りなさに腹を立てて、途中で席を蹴って帰ってしまったほどだったのです。歌劇「ヴォイェヴェーダ」が失敗に終わったことは言うまでもありませんが、チャイコフスキーは失望のあまり、その楽譜をすべて焼き捨ててしまいました。
これが、チャイコフスキーの傷つきやすい心を打ちのめした、三度目のつまずきでした。
続いて「ロメオとジュリエット」が音楽協会で演奏されましたが、校長であるルービンシュタインと生徒たちの間でいざこざが起き、演奏会はまるで狂ったようなデモ騒ぎに飲み込まれて、チャイコフスキーの音楽はめちゃくちゃにされてしまいました。
これが四度目のつまずきです。
歌劇「ウンディーン」の楽譜は、役人の不注意で郵送中に紛失してしまい、数年後にようやくチャイコフスキーの手元に戻ってきたこともありました。
これは五度目、そして六度目のつまずきと言えるでしょう。
このように、チャイコフスキーの青春時代は、終わりのない失望の連続でした。
後年、あれほど多くの人々に愛され、亡くなった後には憧れと愛情の花輪で飾られることになったチャイコフスキーですが、その出発点があまりに不運だったのは、どうしたことでしょうか。
チャイコフスキーを口数の少ない、憂鬱な性格にし、「悲愴交響曲」のような曲を作らざるを得ない心境に追い込んだのは、こうした不幸の連続だったのではないか……誰がそうではないと言い切れるでしょうか。
非凡な弱気
しかし、諦めはチャイコフスキーに新たな勇気と、新しい創作のテーマを与えました。
たまたま窓の外で歌う左官の歌にインスピレーションを受けて、「弦楽四重奏曲第一番ニ長調」の有名な「アンダンテ・カンタービレ」を作曲したこともありました。
チャイコフスキーがある女優に恋をしたのは、ちょうどその頃のことです。
その女優は美しく、才能と機知にあふれていました。
友人たちが二人の仲を祝福していた頃、当の女優はチャイコフスキーのことなどすっかり忘れて、ポーランドで一座の男の歌手と結婚してしまいました。
チャイコフスキーは怒るというよりも、ただただ驚くばかりでした。
次のシーズンにその女優がモスクワに現れたとき、チャイコフスキーは客席から遠く舞台を見つめ、すっかり感動して涙さえ流していました。
それからしばらく経ったある日、ルービンシュタインを訪ねたチャイコフスキーは、控室で偶然彼女と鉢合わせをしてしまいました。
チャイコフスキーは真っ青になって椅子から飛び上がり、彼女の方は驚きの声をあげて、まるで追い詰められたネズミのように、外へ逃げ出せる扉を探し回りました。
チャイコフスキーの人の良さというのは、だいたいこのように、どこか抜けているところがありました。
心血を注いだ劇音楽「雪娘」も不成功に終わり、当時ロシア音楽界の柱と思われていたルービンシュタイン兄弟は、チャイコフスキーの作品を無視し、少しの好意も示しませんでした。
「ヘ長調の四重奏曲第二番」は不満と軽蔑の目で見られ、大ピアニストであるアントン・ルービンシュタインに至っては、チャイコフスキーが献呈した「一つの主題による六つの小曲」に対して、嬉しそうな顔一つせず、公衆の前で演奏することさえありませんでした。
1873年、「第二交響曲」やその他の傑作が世に送り出されました。
しかしそれらも、友人たちから文句を言われて不本意ながら大幅な書き直しを強いられました。その一方で、同時に作曲した「嵐」が、遠い異国のフランスで開催されたパリ博覧会で演奏され、熱狂的な喝采を浴びたのは皮肉なことでした。
「ピアノ協奏曲第一番変ロ短調」は、先輩のニコラス・ルービンシュタインに捧げるつもりでしたが、ルービンシュタインはチャイコフスキーがピアノパートを書く際に自分に相談しなかったことを根に持ち、作品に対して敵意さえ見せました。
彼は大勢の前でその曲を、わざと下手くそに弾いているような調子でこき下ろしたため、温厚なチャイコフスキーもさすがに腹に据えかね、その曲をハンス・フォン・ビューローに献呈しました。
その曲がボストンでビューローの手によって初演され、熱狂的な歓迎を受けたと聞いたとき、チャイコフスキーは持っていたお金をすべて叩いて、お礼の電報を打ったほどでした。
フォン・メック夫人はチャイコフスキーに静かな生活を与え、作曲に没頭させるために年金を支払うことを申し出ました。
1873年のことです。
その申し出は、メック夫人の正体を明かさないこと、会っても挨拶を交わさないというチャイコフスキーの身勝手な条件を含んだまま成立しました。おかげでチャイコフスキーは音楽学校の教職を辞し、静かな場所で3年間、作曲に専念する生活を送ることができました。
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