初級翻訳・気にいらない鉛筆 第1話

小川 未明

次郎さんはかばんを肩にかけると、時計を見上げて言いました。
「うわ、もうこんな時間じゃないか! もっと早くそう言ってくれればいいのにさ」
お母さんや女中のきよさんに、ぶつぶつと小言を言います。
「毎朝、言われなくても自分で気をつけるものですよ」
お母さんはそうおっしゃっただけで、それ以上は何も言いませんでした。

それでも次郎さんは、まだ文句を言いながら、かばんから一本の鉛筆を取り出して見せ、テーブルに小銭をポンと投げ出しました。
「きよ、僕が学校から帰ってくるまでに、これと同じ鉛筆を買っておいてくれよ」
「自分のことは、自分でしなさい」
お母さんがたしなめましたが、次郎さんは聞く耳を持ちません。
「きよ、ちゃんと買っておくんだよ」
念を押す次郎さんに、きよさんは赤いほっぺを少し膨らませて、困ったようにたずねました。
「坊ちゃん、それはどこに売っているのでしょうか?」
「本屋にもあるし、角の文房具屋にだってあるだろう!」
次郎さんはそう言い捨てると、あわてて靴をはき、
「行ってきます!」
と言い残して、かけ出していきました。

「自分のことは自分でするものだと言っても聞かないのだから、放っておけばいいのよ」
お母さんは言いましたが、優しいきよさんは仕事が終わると、言われた通りに鉛筆を買いに出かけました。

午後になり、妹の光子さんが先に帰ってきました。それからしばらくして、次郎さんが元気よく靴を鳴らして帰ってきました。
「ただいま!」
ちょうどお母さんは外出中でした。次郎さんは机の上に置かれた鉛筆を手に取ると、不満そうにつぶやきました。
「僕の言ったのと違うな。……ちゃんと書けるのかな」
そう言って小刀で削り始めましたが、芯がやわらかいのか、すぐにポキリと折れてしまいました。
「なんだよ、こんな鉛筆で何が書けるっていうんだ!」
次郎さんはかんしゃくを起こして、女中さんを呼びつけました。
「きよ! なんでこんな鉛筆を買ってきたんだ。やわらかくて書けないじゃないか。違うやつだから返してこい!」
そう言って、鉛筆を投げつけて無理難題を言いました。

次郎さんが怒って部屋を出て行ったあと、きよさんはどうしていいか分からず、鉛筆を握りしめたまま台所で泣いていました。こんなとき、遠い田舎のことが思い出されて、家族が恋しくてたまりません。
いまごろ、青々とした麦畑ではひばりがさえずっているだろうか。野原に行けば、白い野ばらの花が咲いて、いい香りが漂っているはず――。そう考えると、いっそう故郷がなつかしくて、胸が苦しくなりました。

「どうしたの?」
そこへ光子さんがやってきて、やさしく声をかけてくれました。きよさんは泣いているところを見られるのが恥ずかしくて、前垂れで涙をぬぐいました。
「私が間違えて、違う鉛筆を買ってきてしまったので、申し訳ありません」
「どうしてその鉛筆じゃダメなの?」
光子さんに聞かれて、きよさんは悲しそうに答えました。
「やわらかくて、すぐに折れてしまうのです」
「そんなの、お兄様がわがままなんだわ」
「いいえ、私が悪かったのです……」
きよさんはしょんぼりとうつむきました。

「自分のことは自分でしなさいって、いつもお母様が言っているでしょう?」
光子さんはそう言うと、走って自分の筆入れから新しい鉛筆を持ってきました。
「これを兄さんにあげるといいわ。私、やわらかい方をもらっておくから」
きよさんに鉛筆を渡してくれたのです。きよさんは、本当にうれしくなりました。

「ねえきよさん、きよさんの田舎には、やまゆりがたくさん咲くの?」
「はい、山へ行くとたくさん咲いております」
「うちの花壇の花も咲いたから、いっしょに見に行きましょうよ」
光子さんはきよさんを連れて、お庭へ出ました。背の高いやまゆりが、見事に花を咲かせています。きんせんかやけしの花も、美しく咲き誇っていました。
きよさんは、やさしいお嬢さんのことを故郷の妹へ手紙に書こうと思い、散った真っ赤なけしの花びらを拾い集めました。
風に葉がキラキラと光り、ひらひらと蝶々が舞っていました。

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