「まあ、まあ、お嬢様」
そう言って迎えてくれた中年の夫人は、昨年猫間ヶ淵で亡くなった潜水夫の妻で、お高さんという――白い割烹着に、引詰めた束髪といった、思いの外東京風の女性です。
小屋は板敷きの六畳間が二つと、それに小さな物置がついているだけ。不自由といえば不自由ですが、夏の間だけ十日や二十日過ごすのであれば、キャンプのつもりで五人や七人暮らせないことはありません。
「まあ、随分大変ね。こんなに川底が見えて」
小屋を出て北上川の岸へ降りると、さすがにこの一、二年、父である立花博士がどれほどの苦心をしてきたかが思いやられます。
昔の平泉館の秘密を探るために、北上川に大堤防を築き、旧桜川の流域へ水を流し込んで、水がなくなった河床を縦横に掘り下げているのです。
「綾子さんのお父様は、大変な仕事を始めたんだね」
健一も、この大工事の跡を見ると、さすがに舌を巻きます。
「でも、花井さんたちが番をして、後を荒らさないようにしてくれていたから、すぐにでも仕事を続けられるじゃありませんか。費用はお父様が出してくださるそうだから、大急ぎで人夫を集めて、発掘の仕事を始めましょうよ。――花井さんは指図ができるでしょう」
燿子は相変わらずの頭のよさを発揮して、ぐんぐん物事を進めます。
健一と燿子の父であり、大実業家である翠川氏が後援してくれれば、この仕事は思いの外順調に進むはずです。
「できるつもりです。今までも大抵僕がやってきましたから」
「ちょうどよかったわねえ」
綾子も、父である博士の仕事を継続できることが、本当に嬉しそうです。
花井が刺された――健一のかわりに
急に人夫は集められ、堤防は新たに築き足されて、平泉館の発掘事業が続けられました。
大勢の人夫を指揮するのは書生の花井一郎、炊事の世話はお高さん。健一は総監督という名ばかりの役職で、隙さえあれば北上川の淵へ飛び込んで泳いだり、早瀬をさらって鮎や鰻、鮠(はや)を捕まえたりしているので、これでは全く頼りになりません。
青葉山と、まるで碧玉を溶かし込んだような美しい水の間を、この世のものとは思えないほど可愛らしい二人の少女、綾子と燿子が飛び回る姿は、人夫たちの目や心をどれほど慰めたことでしょう。
二人とも白やピンクの軽やかな洋服をまとい、一人は蝶々のように軽快に、もう一人は姫百合のように静かに、難しい発掘事業の現場を見回っているのでした。
「あの仙台で撒いたハイカラさんが来ているのよ、三日も前から――」
ある日、燿子はそっと綾子に耳打ちしました。
「まあ」
燿子はたまらなさそうに笑い出しますが、心配性な綾子は、なんとなく不吉な予感にぞっとしてしまいました。
その晩、花井一郎は少し気分が悪いらしく、青ざめた顔をしていました。おそらく一日中、太陽の下で人夫たちに号令をかけていたからでしょう。
「物置で寝るのは体によくないよ。あそこは窓が小さいし、扉を開けておくと用心も悪いから」
健一がそんなことを言うと、
「大丈夫ですよ、慣れていますから」
と花井は答えます。
「いや、君が病気になると大変だ。僕は総監督といっても名前ばかりだし」
健一は無理やり花井一郎を六畳の自分の寝台に寝かせて、自分は物置のむしろの上で寝ることにしました。
事件が起きたのはその晩のことでした。
「少し変じゃない? 燿子さん」
夜中に、綾子は隣で寝ている燿子を揺り起こしました。
「どうして? 綾子さん」
「なんだか唸り声が聞こえるのよ」
「そうね」
二人は寝巻のまま床に降りると、手提げ電灯を持って隣の部屋へ向かいました。唸るような声は、確かにそこから聞こえてきます。
「花井さん?」
兄である健一の寝台には、今晩に限って花井が寝ているはずなのです。
「少し変ね、花井さんは病気が悪化したのかしら」
二人は顔を見合わせると、思い切って扉を押し開けました。
二筋の電灯の光に照らされて、
「あッ!」
そこには、夥(おびただ)しい血の海の中に倒れている花井一郎の姿がありました。
騒ぎは一気に大きくなりました。健一もお高さんも、人夫頭も駆けつけてきました。抱き起こしてみると、花井は肩先と両手にひどい傷を受けており、虫の息になっています。
電話をかけたり、人を走らせたり、村の医者が駆けつけたりと、小屋の中は煮えくり返るような大騒ぎでしたが、夜明け前には自動車で一関の病院へ運ばれ、「命だけは取り留めた」と聞いて、一同ようやくホッと胸をなでおろしました。
花井がいなくなると発掘作業は行き詰まりますが、今となっては中止するわけにもいきません。お高さんは花井の付き添いで一関へ行ったため、炊事の監督は綾子が、花井がやっていた人夫への号令は、健一が引き受けるより他ありませんでした。
「花井の代わりに僕がやられた方がよいくらいのものさ。弱ったね」
慣れない仕事に、健一はぼやき続けています。
「でも、お兄様の方が『大将』だと思われたのよ。悪者はあの晩、寝室が変わったことを知らずに、お兄様を刺すつもりで来たんだから」
燿子は相変わらず、物事の底の底まで見抜いています。
河の中の横穴――宝庫の入り口か
「困った。人夫がみんな引き揚げてしまった」
「えっ」
「河原には人っ子一人いないんだ」
「どうしたの、お兄様」
「人夫たちに悪い噂を吹き込んだ奴がいるんだ。――こんなこと、綾子さんには聞かせたくないんだが」
「どんなことなの、お兄様」
健一と燿子は、木陰から、真夏の太陽に照らされて乾ききった肌を見せている河床を眺めながら、ひそひそと話していました。
「――立花博士は大詐欺師で、刑務所で死んだ。こんな仕事に首を突っ込んでいると、日当にはなるだろうが、そのうち警官が来てみんな捕まるかもしれない――なんて言った奴がいるんだ。人夫の半分以上は土地の正直な人たちだから、驚いて引き揚げてしまったんだよ。賃金を倍にすると言っても駄目なんだ」
「お兄様」
「僕はもう、嫌になってしまったよ」
「お兄様、そんなことでは駄目よ。東京へ電報を打って、百人も人夫を呼ぶのよ」
「そんなことができるわけないだろう」
「できますとも、三日も経たないうちに来るわ。東京には仕事がなくて困っている人がたくさんいるって言うじゃないの」
燿子はとんでもないことを言い出しました。日本の誇りと言われる大選手も、頭の良さではどうしても妹にはかないません。
「どうしたんでしょう、人夫が一人もいないなんて?」
間もなく綾子も異変に気づきましたが、燿子は「東京から新しい人夫を呼ぶことにしたから」と、当たり障りのないことを言って綾子をなだめました。
「だが、こうして待っているのは馬鹿馬鹿しいな。二日でも三日でも真剣に仕事を経験すると、じっとしているのが罰当たりな気がしてくる」
健一はフラリと河原へ出て行きましたが、三十分ほどすると、汗だくになって戻ってきました。「た、大変だ」
「どうしたの、お兄様」
「み、水を一杯」
綾子が汲んで差し出したコップを、健一は一息に飲み干すと、こう言いました。
「高館跡の河床、崖になっているところに、鼠の穴のような横穴があったんだ。
コメント