初級翻訳・火の鳥 第4話

太宰 治

あなたは体もまだすっかり良くなったわけじゃないから、僕が責任を持って、あなたを連れて帰るって約束したんだ」

「すみません……」
さちよは、消え入りそうな小さな声で、もう一度謝りました。

「いいえ、気にしないで。僕のことはどうでもいいんだけどね」
青年はいろいろと話しているうちに、この一週間の間に自分が味わったつらい苦しみをはっきりと思い出してしまい、どうしても少し不機嫌になってしまいました。
「あなたは、これからどうするの? 僕が住んでいるアパートに来る? それとも、どこか別の場所へ行く?」

二人は、もう大きな劇場の前まで歩いてきていました。

「入舟町(いりふねちょう)へ帰ります」
さちよは入舟町の路地裏にある、髪結い(美容院)さんの2階の部屋を借りて暮らしていたのです。

「あ、そうですか」
青年は、少し冷たいビジネスライクな声で言いました。
彼の不機嫌さは、ますます強くなっていました。
「そこまで送りましょう」

青年はタクシーを呼び止め、二人はそれに乗り込みました。

「一人で暮らしているのですか?」

さちよは何も答えませんでした。
青年の何気ない、のんきな質問に、さちよはなんだかとてもバカにされたような気持ちになってしまいました。さっきとは違う、悔しい涙が胸の奥からわき上がってきましたが、なんとか気持ちを落ち着かせて、悲しそうに少し微笑みました。

(この人は、何にも知らないんだわ)
(私たちが、どれほどみじめで、苦しい毎日を送っているのか、このお坊ちゃんには、何一つ分かっていないんだわ)
そう思った瞬間、さちよの顔の微笑みは凍りつき、まるで恐ろしい鬼のような、冷ややかな笑みへと変わっていきました。

☆

「男の人なら、何人だっていますよ」
本当はそう言ってやりたかったのです。

自分では「私はかわいくない」と恥ずかしがっているのに、周りの人からは「きれいだね」と言われる女の子ほど、かわいそうなものはありません。
風の音や、遠くで鳴く鳥の声にさえビクビクとおびえながら、一生の間、「自分は何か悪いことをしているんじゃないか」という、おかしな罪の意識と戦い続けなければならないからです。

高野さちよは、決して誰もが振り返るような美人ではありませんでした。
それなのに、男の人たちはみんな、彼女に夢中になりました。
心がとても清らかで、まるで神様のように尊い女性であっても、力ずくで自分の思い通りにできるのではないか――そんな悪魔のようなささやきに惑わされて、男の人は時々、すっかり理性を失ってしまうのです。

その頃の東京では、有名な絵の『モナ・リザ』や、歴史上の偉大な女性たちを、ただの「一人の女性」として面白おかしく眺めるような、少し冷めていて、お行儀の悪い男たちの流行がありました。
そんな風に、何に対しても心が冷え切ってしまっているのは、中身がからっぽな「むなしさ」と同じではないでしょうか。
しかも、そういう冷めた考え方には、深いも浅いもありません。
決まっています。それはとても、底の浅いつまらないものなのです。

さちよの周りには、本当にたくさんの男の人が、虫のようにウジャウジャと集まってきました。
そんな青白い虫たちに囲まれる中で、女の子がたった一人で、「いつか本当の輝くような愛を見つけたい」と、まっすぐに夢を見ながら生きているなんて、これほどかわいそうで、つらいことはありません。

「ねえ、あなたは、どう思う? 人間って、みんな同じなのかな」
さちよはいろいろと考えたあと、青年にそんな質問をしてみました。
「私は、一人ひとり、みんな全然違うと思うんだけどな」

「それは心のことですか? それとも、体の仕組みのことですか?」
若い医学部の学生である青年は、まるで学校のテストに答えるような、真面目くさった顔で聞き返しました。

「ううん、違うの。私ったら、気取っちゃって、なんだか恥ずかしいわね。ちょっと、お姉さんぶってみただけよ」
さっきまで泣いていた人とは思えないくらい、さちよは高らかに笑いました。
その時、彼女の白い歯が氷のようにキラキラと輝いて、とてもきれいでした。

目の前の橋を渡れば、もう入舟町です。

「ちょっと、うちに寄っていかない?」
(そうよ、私はどうせ、夜のお店で働く女の子なんだから)

部屋に入ると、そこにはなんと、善光寺助七(ぜんこうじ すけしち)が、部屋の真ん中にドカンとあぐらをかいて座っていまいた。
青年と顔を見合わせると、善光寺はすぐにペコペコした態度になり、「ひひっ」と嫌らしく笑って言いました。

「あなたも驚いたでしょう? 俺だって、本当に腰を抜かすほどびっくりしたよ! さちよちゃんはね、いつもこういう大ごとを平気でやらかすから、本当に困っちゃうんだ。新聞社にニュースが入って、大急ぎで病院へ行ってみたら、このお嬢さんは、ただわあわあ泣いているだけなんだもの。何がなんだかさっぱり分からなかったよ。そのうち、警察から『この記事は新聞に載せてはいけない』って命令が出たんだ。知っていましたか? 須々木乙彦って男は、ただのコソ泥なんかじゃないんですよ。黒色テロ――なんと、銀行を襲撃しちゃったんだから!」部屋の隅で、おもしろくなさそうに突っ立っていた青年は、顔を真っ青にしながら言いました。
「それ、本当ですか?」

「あと五、六日もすれば、新聞に載せてもいいって許可が出ると思うんだけどね」
善光寺は新聞社で働いていたので、そういうことに詳しかったのです。

さちよは、静かに窓のカーテンを開けました。
(私はあの時、病院で、この善光寺助七さんの腕に抱きついて、わあわあ泣いたんだわ……)

「あなたは、いつからここに来ていたの?」
さちよは、少し冷たい声で尋ねました。

「おれかい?」
助七は、大金持ちの偉いおじいさんにそっくりな丸い顔をぽっと赤くして、まるで子どものようにもじもじと照れました。

「ほんの、ちょっと前だよ。今朝早くに警察へ電話してみたら、二人が警察から出られるって教えてくれたんだ。だから、とにかくここへ来てみたんだよ。下の階の大家のおばさん、ものすごく心配していたぜ。留守の間に何度も何度も刑事がやってきて、この部屋をめちゃくちゃに調べていったらしいからね。おばさんには、おれからうまく説明しておいたから安心しなよ。さあ、とにかく座りなさい」
助七はさちよの顔をうれしそうに見上げて、「本当によかった。君が無事で、本当によかったよ……」と言いながら、目に涙を浮かべていました。

さちよは、机の上に片手を置いて、力が抜けたようにへたりと座り込みました。
「よくなんか、ちっともないわ。ねえ、タバコはない? おかしいわね、私、あなたの顔を見ると、急にタバコが吸いたくなっちゃうの」

「そいつはひどい挨拶だなあ」
助七はそう言いつつも、頼りにされているのが嬉しくてたまらない様子でした。

「僕は、これで失礼します」
青年は、さっきからふすまに軽く寄りかかって、立ったままでいました。

「そうなの?」
さちよは、きょとんとした顔で青年を見上げ、タバコの煙をふうっと吐き出しました。

「体を大切にしてくださいね。

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