「十号ガスというのですか。
なかなかすごいものですねえ」「その十号ガスのため、火星人の殻が蒸発して、なくなってしまうと、それから火星人はどうなります」
「どうなると言うのか。
それはわかっているではないか。
火星人は、はだかになってしまう。
地球の上で、火星人がはだかになれば、彼等は、すぐに死んでしまわにゃならん。
なぜって、地球の上では大気の圧力が強すぎて、火星人の体はもたないのだ。
火星人の体を、地球の強い圧力の大気から守るために、火星人は殻をつけているのだからねえ。
それを取られりゃ、一たまりもなく、火星人は死んでしまうはずじゃ」
十号ガスのすばらしい力!
蟻田博士は、たいへんなものを発明したものだ。
これなら火星人は、かなり苦戦に陥るであろう。
「全く、驚きました。
何というりっぱな発明でしょう。
怪人丸木が、この十号ガスをあびてふうふうするところを、今から想像すると、とても嬉しいですな」
新田先生は、嬉しさのあまり、子供のように手を叩いたり笑ったり。
それを見ていた博士も、すこぶる満足らしかったが、
「そこで、新田。
わしはこれからしばらくお前にもあわないよ」
と、博士は、とつぜん妙なことを言いだした。
「えっ、私にあわないとおっしゃると……。
博士はどこへ行かれるのですか」
先生は意外に思った。
「わしは、これからひとりで閉籠って、十号ガスをうんとつくらにゃならんのじゃ。
火星兵団をやっつけるには、十号ガスをよほど多量にもっていなければならんのでのう」
博士は、研究を完成した十号ガスを、これから製造にかかるというのだ。
「博士、私にお手つだいをさせて下さい」
「いや、それは困る。
これはわしひとりが、たましいをうちこんで、作らんことには、いいものが出来ないのだ。
誰かがそばにいると、気が散っていいものが出来ない」
「しかし博士、地球最期の日は、もうあと一週間そこそこですよ。
十号ガスの製造に、あまり長く日がかかると、もう間にあいませんよ」
「それは大丈夫だ。
あと三日あればいいのだ。
じゃ、あとを頼んでおくよ」
「ああ博士、どこへ行かれるのですか」
博士は、それには答えず、出て行った。
52 矢ヶ島天文台
日毎夜毎に、モロー彗星のすがたは怪しさを加えていった。
今では、彗星の大きさは月をはるかにしのいでしまった。
空を見上げると、まるで大きな光る飛行船を天に張りつけたようであった。
モロー彗星の距離は、地球から月までの距離の何十倍ぐらいかのところまで近づいたのであった。
あのすばらしい速さでもって、モロー彗星は間もなく月の側を通り越し、地球の正面へどうんとぶっつかるはずだった。
人々は、もう殆ど全部が、おかしくなってしまった。
もうあと七日足らずの生命だというので、変な遊びに熱中しているあさましい人間が町にあふれていた。
そうかと思うと、中にはせっせと働いている者もあった。
庭に一生けんめいに朝顔の種をまいている者があったり、町から投売の安い品物を買って来て、一生けんめいに納屋へしまいこんでいる者もあった。
彼らはたいへん落着いて働いているようでありながら、その実は、やっぱりおかしくなっていたのだ。
なぜと言って、朝顔の種をまいてみても、その花が咲くのは夏時分になる。
夏までこの地球がもてばいいが、あと数日で崩壊してしまうのだから、彼のやっていることはどうもおかしい。
安い品物を買集めている人にしても、やはり同じように、気がどうかしているのであった。
たまに、まじめなことを言出す人があっても、誰もそれを本気で耳にとめる者はいなかった。
モロー彗星は日毎夜毎にぐんぐんと大きくなり、それを見ていると、誰に説明を受けなくても、地球と正面衝突するであろうということが、誰にもわかりすぎるほど、わかったのである。
(もはや、さけることの出来ない悲しい運命だ!)
誰も彼も、そう信じていた。
天文台では、一日二十四時間、近づくモロー彗星の観測と記録とに、かかりきりであった。
台員の数は、前に比べると五分の一に減ってしまった。
非常に熱心な台員だけが、やがて自分の死も忘れ、それから今とっている記録もやがて灰になることさえ、あまり気にとめないで、手不足の中に観測をつづけていたのであった。
天文台はじまって以来、これほどすばらしい観測材料がころがりこんだことは、前例がなかった。
各国の天文台におけるモロー彗星観測の結果の中で、重要なものや、ひどく興味のあるものは、ラジオやテレビジョンでもって、ただちに天文台の名とともに放送された。
しかし、その放送を聞いている者は、ほとんどなかった。
どこの天文台でも台員は放送するばかりで、他人の放送を聞こうともしなかったし、また人手が足りないため聞いているひまもなかった。
かえって、天文学者でもない素人の方が熱心に聞いていたのであった。その素人も、さっき言ったように、そのほとんど全部が気の毒なおかしくなった人であったわけだが……。
「矢ヶ島天文台発表」
ぼそぼそした声で放送している者があった。
「矢ヶ島天文台? 聞いたことのない天文台だなあ」
この放送を聞いていた病人が、にやり、気味の悪い笑いをうかべた。
「わが天文台は、一昨日から月に関する天文放送を始めていますから、今日以後の放送を、よく御注意下さい」
「なんじゃ、この放送者は、どうも頭がおかしいぞ。
気がへんになったのじゃないかな」
と、放送を聞いている病人が言った。
モロー彗星のことで、世界は、ひっくりかえるような騒ぎをやっているのに、ひとり矢ヶ島天文台からは、月に関する観測を放送すると言うのであるから……。
だが、月の南中の早い遅いは、果してばかばかしいことであろうか。
矢ヶ島天文台では、それについて、こんなことを放送した。
「皆さん、月が怪しい運動を始めていますから、どうか御注意下さい。
月がどうかしているのです。
今は、たった百分の一秒とか、百分の二秒とかですが、この先、この異常運動がどういう風に変って行くか、注意していただきたいのです。
もっと申し上げたいのですが、今は、このくらいにしておきます」
矢ヶ島天文台は、たった百分の一秒の程度ながら、月が怪しい運動をしているから、注意をしてくれというのだ。
(モロー彗星・地球・火星と、この三つのものを考えなければならない地球人類にとって、この上、月のことまで心配させられてたまるものか)
と、あざわらう人もあれば、おこる人もあった。
人々のそういう声は、矢ヶ島天文台にも聞えぬはずはなかったが、この天文台長たる素人研究家の矢ヶ島君は、悪口には平気の平左で、月のことを熱心に研究して、人々の注意をうながしているのであった。
また或る時、矢ヶ島天文台は、こんなことを言出した。
「皆さん、いよいよ月に注意していただきとうございます。
月は、一日のうちに二度、異常運動をしていることがわかりました。
そうして、異常運動はごくわずかですが、はげしくなって行くようです。
明晩の月に特にご注意下さい。
望遠鏡で月の面をごらん下さい。
その時、月の面に、何か変ったことがあらわれるかも知れません。
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