その代わりと言ってはなんですが、あなたと彼女の関係をきっぱり清算して、これからは旦那ヅラをしないという一札を書いていただきたいんですがね」
安福軒は面白そうに日野くんの顔をじっと観察していた。
この日野くんという男は当時三十歳。
呉服屋の手代とはいえ、ギャバジンのしゃれた洋服をスマートに着こなして、見た目からしてちょっと変わった、当時の最先端を行くアプレゲール型の若者である。
なんだかうま味を吸い取れそうだと、安福軒は頭の中で計算した。
「あなたもお察しのとおり、あれほどの美人の彼女を手放すからにはタダというわけにはいきませんがね、まあ、どこかで美味しいものでも食べながらゆっくり話をしようじゃありませんか」
「それがいいですねえ」
思いがけない方向へと話がまとまった。
二人は何がそんなに嬉しいのかさっぱり分からないが、申し合わせたようにウキウキした顔をしている。
どちらもこの先の展開に大満足で、しっかりとした勝算がある面持ちだった。
そして、もう大巻先生には用事がなくなったらしく、
「それでは……」
と二人で目配せの合図をし、先生に軽く挨拶を残すと、この診察室で誕生した生き神さまをそれぞれのやり方で大切に扱いながら、診察室をあとにしたのだった。
神サマの客引き
それからまた一年が過ぎた。
ちょうど日曜日と祝日が続いたので、大巻先生はずっと前から行ってみたいと思っていた、あの温泉地へと出かけたのだった。
その温泉町では、「阿二羅(アニラ)サマ」という名前の新興宗教が誕生していて、大巻先生もその信者ということになってしまっているらしい。
川野水太郎という小説家が一肌脱いでバックアップしているという噂もあるし、安福軒が自分の本業であるはずの万国料理店を放り出して(ホーテキして)、すっかりその宗教にのめり込んでいるという風評も伝わってきている。
教祖の名前は阿二羅大夫人といい、トップの管長は三十歳くらいの口が達者で爽やかな人物だというから、みんなそれぞれ思い当たる節があるようだ。
阿二羅教のことについて大巻先生にわざわざ問い合わせてくる者までいる始末で、先生の名前がなにかの宣伝材料に使われているという話だから、ちょうどいい機会だし、折を見て一度その様子を偵察に行ってみたいと考えていたのだ。
しかし、大巻先生のところに問い合わせてくる人たちの多くが、阿二羅教について悪い噂を持ってくることは少なかった。
先生が医者という職業柄だからかもしれないが、みんな申し合わせたように、その宗教の「病気を治す力(治病能力)」が特にものすごく絶大だという話をしてくるのだ。
それが先生にとって一番の気がかりだった。
大巻先生は開業医という商売をしている身だったので、医者が世間で流行る本当の原因とはいったい何なのかについて、ひそかに痛感させられるところがあったからだ。
もちろん医学的な腕前も大切だが、世渡りの腕前も同じくらい重要で、特に病気を治すスピードを速めるものは、何よりも医者自身の体に備わっている「暗示の力」なのではないか、と先生はひそかに考えていたのである。
「あの阿二羅大夫人という女性には、生まれつき備わっている白痴的とも言えるような気高さがあった。
今にして思えば、人間の性欲すら超越しているような悲壮ですらある雰囲気を持っていたなァ。
オレは今ごろになってそれに気づいたが、あの日の管長が一目でそれを見抜いていたとしたら、こいつはなかなかの大した人物だ。
あの変てこな気品をまとって、自分で勝手に作り出した独特の新しい言葉を使いまくりながら、人生に悩んでいる人々に答えを与えていくとしたら、なるほど、相当な病気を治すパワーを発揮するかもしれないな。
なんせ、世の中の人間どもなんてどうせバカだと思い込んでいるようなお方には、普通の人間どもはとてもかなうわけがない。
大夫人のその威力というものを、一度じっくり見学してみたいものだなあ」
大巻博士は、心の底ではそんなふうにひそかな恐れと興味を抱いていたのだった。さて、温泉駅で電車を降りると、なんと驚いたことに駅には阿二羅教のハッピを着た人たちが客引きのようなことをやっている。
その総大将らしいたたずまいの気品ある人物を見ると、それはなんと安福軒だった。
宗匠のような風貌が一段と落ち着きを増し、底光りして見えるほどだった。
大巻先生は安福軒の背中をポンと叩いた。
「おっ。
これは珍しい。
今お着きですか」
「ちょっと川野君のところに面会に来たのですが、君は阿二羅教の客引きの大将かい?」
「今日は教会に行事があって、これから信者たちが集まってくるのですよ。
何もボクが信者の世話をしなくちゃいけないわけでもありませんから、川野先生のお宅でしたらボクも一緒に参りましょう」
肩を並べて歩き出すと、意外にも安福軒はガラリと人柄が変わって、
「まったく嫌になりますよ。
昔の二号を神サマと崇め奉って、話しかけることも許されないんですからな」
「嫌ならやめればいいだろう」
「それじゃ一文にもなりませんよ。
こうして食らいついていれば、幹部ですからかなりの実入りがあるでしょう。
万国料理の方だって、教会へ出す弁当の方がいい商売になるんですから、我慢第一ですよ。
ちょっと、このところ、教会の方へ足を向けて寝られませんよ」
「それじゃあ結構じゃないか」
「まあ、一応は結構ですな。
しかし、日野クンヌは恐るべき商才の持ち主ですよ。
あのキチガイ女がですね、彼の思い通りに動くんです。
しかもですね、神サマとして動くんですな。
機会があればこの秘伝を会得したいと思っていますがね、これはあなた、天才でなくちゃできませんや」
「君だって彼女を意のままに動かして売春(インバイ)をさせていたじゃないか」
「あれは凡夫凡婦のやり口ですよ。
彼は彼女に神サマをやらせることができるのです。
その神サマを動かして難病を治すこともできます。
まったくですよ。
簡単に治っちまうのが、相当数いるんですな。
川野先生も、それでイチコロですよ」
「川野君の病気を治したのかい?」
「いえ、あの先生の長女の寝小便を治しまして、それから次女のテンカンを治しまして、それからこっちの先生自身も阿二羅大夫人を持薬(じやく)として使っているようですよ。
まったく人間はバカ揃いですよ。
あなたが面倒くさりがらずに彼女を精神病院へブチ込んでおいてくれれば、バカの数がいくらか減っているはずなんですがね」
安福軒は忌々しげに呟いた。
昔は悪事を働きながらも開き直ったような雰囲気があって、芯から落ち着き払った様子だったが、神サマのお伴にうつつを抜かして悪事と縁が切れたせいか、むしろイライラと落ち着きがない。
そうしてみると、神サマにはよほどの威力があるもののように考えられた。
掌の放射熱
「君が安福軒の売春宿へ泊まったのが阿二羅教発祥の縁起だそうじゃないか。
昭和宗教史に特筆すべき一大情事だね」
と川野水太郎は嫌なことを言って大巻先生をからかった。
そこで大巻先生は少々気を悪くして、
「君は教祖を信心しているのかい。
それとも軽蔑しているのかい」
「もちろん信心しているのさ。
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