お前たちは名もない雑魚(ざこ)のくせに、呼び捨てにしたり縄目にかけたりするなんて、なんと情けない、けっして無礼なふるまいをしてはなりませんよ」
「へえ……」と、男たちはその凛とした声に縮み上がりました。
「わたしはこの辺りの道によく慣れているから、あの方をこの馬にお乗せ申し上げるといいわ」
そう言うと、咲耶子は馬から軽やかに飛び降りて、伊那丸の縄をほどきました。
やがて険しい上り坂にかかり、しばらく進むと、一つ目の洞門がありました。
続いて二つ目の洞門をくぐると、天然の洞窟の中に立派な巨大な木材が組み込まれ、きらびやかに飾られた山大名の宮殿のような場所が現れました。
この時代の野武士たちの勢力は、決して侮(あなど)れないものだったのです。
徳川や北条といった名だたる武将たちでさえも、その勢力範囲に手出しをすることができないばかりか、いざ戦争の時でも、野武士の縄張りだと言えば、わざわざ遠回りをしたほどでした。
また、彼らを敵に回した日には、天下の覇権を争うような大事業を成し遂げることは到底できなかったのです。
ここにいる富士浅間(ふじせんげん)の山大名とはいったい誰かというと、それは鎌倉時代からこの裾野(すその)一帯で勢力を振るっている地侍(じざむらい)の末裔(まつえい)で、根来小角(ねごろこかく)という者でした。
連れこまれた伊那丸は、やがて首領である小角の前に案内されました。
獣の油で作られたろうそくが眩(まぶ)しいほどに輝く大広間は、まるで本物の武将の城内に足を踏み入れたかのような緊張感がありました。
根来小角は、野武士の頭目とはいえ、さすがはりっぱな風格を持った男でした。
多くの手下を左右に従えて上段に構えていましたが、伊那丸がやってきた姿を見ると、さっと座敷をすべり降りて自ら上座に案内し、ぴったりと両手を床について家臣と同じような礼をしたため、さすがの伊那丸も少し意外な様子を見せました。
「お目通りいたします者は、根来小角と申す者でございます。
本日は、うちの者どもが礼儀をわきまえぬ無作法を働きましたようで、どうか平にお許し願いたい」
――はて? 残虐と欲の事しか知らない野盗の頭が、いったい何のつもりでこんなにていねいにもてなすのだろうか、と伊那丸は心の中で油断をせず警戒しました。
「それに、武田の若君であられるお方が、拙者の館においでくださったのは天の導きでございます。
どうか何年でもご滞在なさってください。
ところでこのたびは、織田・徳川の両将軍によってご一族が滅亡されたこと、小角、深くお察し申し上げております」
何を言われても、伊那丸は黙ったまま、威厳を少しも崩さずに座っていました。
ただ、心の奥の奥まで見通すような、丸く澄んだ瞳だけが鋭く光っていました。
「つきましては、小角は微力ではございますが、三万の野武士と、この裾野から駿河(するが)・遠江(とおとうみ)・甲斐(かい)・相模(さがみ)の四カ国の山猟師(やまりょうし)たちを、わたくしの指一本で、いつでも目の前に勢ぞろいさせてご覧に入れましょう。
その上で若君が総大将となられて、富士の裾野から武田菱(たけだびし)の旗を揚げられたなら、たちまち諸国からこぞって味方に駆けつけてくることは、火を見るより明らかでございます」
「お待ちなさい」
と、伊那丸は初めて口を開きました。
「ではそちは、わしに名前を名乗らせて、軍勢を集めようという魂胆(こんたん)か」
「お察しのとおりでございます。
拙者には武力はありますが、名声がございません。
それゆえ、今日まで自分の才能を活かせずにもどかしい思いをしておりましたが、若君のお名前と旗印さえお貸しいただけるならば、織田や徳川など鎧(よろい)の袖で軽く触れるだけで十分です。
たちまち蹴散らして、若君の無念を晴らす所存でございます!」
「だまれ、小角!
わしは年は幼いが、武田信玄の血を引く武神の孫だ。
そちのような、野盗の言いなりにはならぬ!」「下郎の力を借りて旗上げはせぬ」
「なんじゃ!」と小角の声はガラリと変わった。
自分の野心を見抜かれた腹立ちと、落ちぶれた一人の少年にピシリとはねつけられた不快さに、顔中をまっ赤に染め上げた。
「こりゃ伊那丸、よくもそんな大口を叩いたな。
もうお前の名前を借りようなんて頼まないわ。その代わり、お前の体を売り飛ばしてやる! 織田家へ引き渡して莫大な恩賞にしてもらったほうが手っ取り早い。
兵太っ、このガキを縛り上げて風穴へ放り込んでしまえ!」
「へいっ!」と、四、五人が立ち上がり、たちまち伊那丸をきつく縛り上げた。
彼はもう覚悟を決めて、じっと目を閉じていた。
「歩けっ!」
と兵太は縄の端を引っ張り、まっ暗な裏道を引っ立てていった。
そして、地獄の口のような岩穴の中へポーンと放り込むと、鉄格子の鍵をガガチャカと下ろして立ち去った。
後ろ手に縛られているため、よろよろと転げ込んだ伊那丸は、しばらく顔も上げずに倒れていた。
ザーザーと山砂を巻き上げる旋風が、暗闇の中で絶えず吹き荒れている風穴の中では、一瞬たりとも目を開けていられないほどだった。
そればかりか、夜が更けるにつれて風の冷たさがますます厳しくなり、まるで八寒地獄の底へ落とされたかのように全身が縮こまっていく。
「ああ、忍剣(にんけん)はどうした……。あの忍剣は、もうあの湖水の藻くずとなって消えてしまったのか……」
今になって、しみしみと懐かしく思い出されてくるのであった。
「忍剣、忍剣。
お前さえいてくれたら、こんな野武士たちに恥ずかしめを受けることもないのに……」
唇を噛み締めながら、転がりながら身もだえしていると、なんだか、とん、とん、とん……と、体の下の地面が下から叩かれるような心地がした。
「はてな? いったいなんだろう……」と身を起こすと、その勢いで、目の前にあった二尺四方ほどの大きな一枚石が、ポンとはね上がった。そして、誰やら覆面をした者の頭が、ぬっとその下からあらわれた。
黒衣の義人
一
山大名の根来小角(ねごろこかく)の殿堂は、七つの洞窟からできている。
その七つの洞穴と洞穴の間には、縦に横に、上に下に、自由に行き来できる抜け道が張り巡らされていたが、それらは小角ひとりが持っている鍵でなければ開かない仕組みになっていた。
また、外には、前にも言ったとおり二つの洞門があって、手下の野武士たちが五人ずつ交代で、かがり火をたきながら夜通し見張りをしているという厳重さだった。
今宵もこの洞門の前では、赤い炎と人の影が見え、夜更けの退屈しのぎに、野武士たちが何か大きな声で話し合っていた。そのまさに最中、ひとりの男が「ワッ!」と驚いて飛びのいた。
「なんだっ!」
と全員が総立ちになったとき、洞門の中からバラバラと飛び出してきたのは、七、八匹の猿だった。
「なんだ、猿じゃないか。臆病者め」
「いったいどうやって檻(おり)から抜け出したんだ?
これは咲耶子(さやこ)さまが大事にかわいがっていらっしゃる飼い猿だぞ。おい、捕まえろっ!」
と、あちこちに散らばっていく猿を追いかけていった。
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