ニッコと笑って丘の上に立った咲耶子が、サッと一閃、笛を振り上げれば敵がかかり、二閃、サッと横に振れば退き、三閃すればたちまち姿を隠す――それは神変ふしぎな「胡蝶の陣」でした。
天翔る鞍馬の使者
一
今日も棒切れを手に持って、友だちの小猿を二、三十匹引き連れ、僧正谷から百足虫腹の険しい山道をつたい、鞍馬の大深林を遊び回っているのは、果心居士の童弟子(わらべでし)、いが栗あたまの竹童(たけどう)でした。
「おや、こんなところに誰かやってくるぞ……最近は人間がよく登ってくるなア」
竹童がつぶやいた向こうを見ると、なるほど、菅笠(すげがさ)をかぶり脚絆(きゃはん)をつけた男が、深い森の道に迷ってウロウロしています。
「オーイ、オーイ――」
彼が口に手をあてて呼ぶと、菅笠の男がスタスタとこっちへかけてきましたが、見るとまだ十歳くらいの男の子が、たったひとりでたくさんの猿に取り囲まれているので、変な顔をしました。「おじさん、どこへいくんだい、こんなところにマゴマゴしていると、うわばみに食べられちまうぜ」
「おまえこそいったい何者だい、鞍馬寺の小坊主さんでもなし、まさか山男の伜でもあるまい」
「何者だなんて、生意気をいうまえに、おじさんこそ、何者だかいうのが本来だよ。おいらはこの山に住んでる者だし、おじさんはだまって、人の山へはいってきた風来人じゃないか」
「おどろいたな」と旅の男はあきれ顔に――「じつは僧正谷の果心居士さまとおっしゃるおかたのところへ、堺のあるおかたから手紙をたのまれてきたのさ」
「アア、うちのお師匠さまへ手紙を持ってきたのか、それならおいらにおだしよ。すぐとどけてやる」
「じゃおまえは果心居士さまのお弟子か、やれやれありがたい人に会った」
と、男は竹童に手紙をわたしてスタスタ下山していった。
「いそぎの手紙だといけないから、さきへこいつに持たしてやろう」
と竹童はその手紙を、一匹の小猿にくわえさせて、鞭で僧正谷の方角をさすと、猿は心得たようにいっさんにとんでいく。
そのあとで、
「さッ、こい、おいらとかけッくらだ」
竹童は、とくいの口笛を吹きながら、ほかの猿とごッたになって、深林の奥へおくへとかけこんでいったが、ややあって、頭の上でバタバタという異様なひびき。
「おや? ――」と、かれは立ちどまった。
小猿たちは、なんにおびやかされたのか、かれひとりを置き捨てにして、ワラワラとどこかへ姿をかくしてしまった。
「やア……やア……やア奇態だ」
なにもかも忘れはてたようすである。
あおむいたまま、いつまでも棒立ちになっている竹童の顔へ、上の梢からバラバラと松の皮がこぼれ落ちてきたが、かれは、それをはらうことすらも忘れている。
そも、竹童の目は、なんに吸いつけられているのかと見れば、じっさい、おどろくべき怪物――といってもよい大うわばみが、鞍馬山にはめずらしい大鷲を、翼の上から十重二十重にグルグル巻きしめ、その首と首だけが、そうほうまっ赤な口から火焔をふきあって、ジッとにらみあっているのだ。
まさに龍攘虎搏よりものすごい決闘の最中。
「や……おもしろいな。おもしろいな。どっちが勝つだろう」
竹童おどろきもせず、口アングリ開いて見ていることややしばし、たちまち、鼓膜をつんざくような大鷲の絶鳴とともに、大蛇に巻きしめられていた双の翼がバサッとひろがったせつな、あたりいちめん、嵐に吹きちる紅葉のくれないを見せ、寸断されたうわばみの死骸が、バラバラになって大地へ落ちてきた。
それを見るや否や、雲を霞と、僧正谷へとんで帰った竹童。
果心居士の荘園へかけこむがはやいか、めずらしい今の話を告げるつもりで、
「お師匠さま、お師匠さま」と呼びたてた。
「うるさい和子じゃ。あまり飛んで歩いてばかりいると、またその足がうごかぬようになるぞよ」
芭蕉亭の竹縁に腰かけていた居士の目が、ジロリと光る、その手に持っている手紙をみた竹童は、ふいとさっきの用を思いだして、うわばみと鷲の話ができなくなった。
「あ、お師匠さま、さきほど、お手紙がまいりましたから、猿に持たせてよこしました。もうごらんなさいましたか」と目の玉をクルリとさせる。
「横着なやつめ。小幡民部どのからの大切なご書面、もし失のうたらどうするつもりじゃ」
「ハイ」
竹童は頭をかいて下をむいた。
居士は、白髯のなかから苦笑をもらしたが、叱言をやめて語調をかえる。
「ところでこの手紙によって急用ができた、竹童、おまえちょっとわたしの使いにいってくれねばならぬ」
「お使いは大好きです。どこへでもまいります」
「ム、大いそぎで、武蔵の国、高尾山の奥院までいってきてくれ、しさいはここに書いておいた」
「お師匠さま、あなたはごむりばかりおっしゃります」
「なにがむりじゃの」
「この鞍馬の山奥から、武蔵の高尾山までは、二百里もございましょう。なんでちょっといってくるなんていうわけにいくものですか、だからつねづねわたしにも、お師匠さまの飛走の術をおしえてくださいともうすのに、いっこうおしえてくださらないから、こんな時にはこまってしまいます」
「なぜ口をとがらすか、けっしてむりをいいつけるのではない。
それにはちょうどいい道案内をつけてやるから、和子はただ目をつぶってさえいればよい」
「へー、では、だれかわたしを連れていってくれるんですか」
「オオ、いまここへ呼んでやるから見ておれよ」
と果心居士は、露芝の上へでて、手に持ったいちめんの白扇をサッとひらき、要にフッと息をかけて、あなたへ投げると、扇はツイと風に乗って飛ぶよと見るまに、ひらりと一羽の鶴に化してのどかに空へ舞いあがった。ア――と竹童が目をみはっていると、たちまち、空の上からものすごい風を巻き起こしながら黒い大鷲が、鶴めがけてパッと飛びかかりました。
鶴は白い毛を雪のように散らしながら逃げまわり、鷲のするどい爪に追いかけられて、果心居士の手もとへと逃げて下りてきました。しかしその瞬間、居士がひょいと手をのばすと、すでに鶴は一本の扇となって手のうちにつかまれ、それを追ってきた大鷲は、居士の膝の前に翼をきれいにたたんで、ピッタリとおとなしくうずくまりました。
二
「竹童、竹童。その泉の水を少々くんできなさい」
「はい!」
あっけにとられて見ていた竹童は、居士にいわれたとおり、岩のあいだからこんこんと湧き出ている泉の水をすくってきました。
「かわいそうに、この鷲は片目を鉄砲で撃たれているため、だいぶ苦しがっている。はやくその霊泉で洗ってやるがよい。すぐに治るから」
「はい!」
竹童は草の葉をひとつかみ取って水にひたし、何度もていねいに鷲の目を洗ってあげました。
大鷲は気持ちよさそうに、竹童のするがままにじっと身を任せていました。
「おまえの道案内はこの鷲だ。これに乗って出かければ、千里の旅も一日のうちで行き来できる。
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