しかし、そうしたキャラクターたちが勢揃いして大騒ぎを繰り広げる第11章・第12章の裁判シーンも、その大部分が後から加筆されたものですが、単なるキャラクターの面白さや言葉遊びだけで片付けることはできません。
裁判という仕組み一つとっても文化的な違いが大きく表れますが、イギリスにおける法曹界は、歴史的に「階級社会でのし上がること」や「教養」、あるいはそれに付随する「偽善」といったものと密接に結びついています。また、後の20世紀に起こる出来事を予言しているかのような描写(たとえば、理不尽な判決や不当な弾圧などにつながる、勝手気ままな裁判の様子)も、風刺である以上、キャロル自身もかなり自覚的に書き込んでいるはずです。
そうした「予言」とも言える内容が加筆されているという点は、少女たちと個人的に遊んでいた『地底』のキャロルではなく、社会の一員として(あるいは学寮の改革に奔走し、理不尽な揉め事に巻き込まれた経験を持つ)『不思議』のキャロルが現れている証拠でもあるのです。
繰り返しになりますが、出版を前提とすることで、キャロルと読み手(さらには物語のキャラクターたち)との関係性が変化しました。
本を世に出すということは、その本が読まれる社会を強く意識するということであり、キャロル自身も個人から社会人へと変わっていったのです。
だからこそ、イギリスの文化や社会、階級社会の仕組みや皮肉が、より強く、そして批判的に浮かび上がってくるのです。
描かれているものは一種のカリカチュア(風刺画)でもありますが、このあたりはイギリス伝統の風刺文学を彷彿とさせますし、挿絵画家テニエルらが描いた当時の風刺画の要素が、『地底』から『不思議』になる過程で、巧みに混ざり合いながら意図的に加筆されているように感じられます。
そう考えてみると、「アリス」作品ではキャラクターのモデル探しが盛んですが、『地底』由来のキャラクターのモデルは身内のものであり、『不思議』から現れたキャラクターの場合は、批判の対象としてのモデルである、という一応の区別が立てられそうです。
6
ただ、風刺を行うためには、極端にデフォルメするための仕掛けや舞台が必要です。例えば『ガリヴァー旅行記』が、現実と地続きに見せかけた架空の旅行記という形式を使って誇張された世界を描くように、アリスの場合はそれが「地下」と「夢」という設定になります。
本当はどちらか片方でも物語は成立するはずですが(『地底』の設定からそのまま引き継いだ結果なのかもしれませんが)、二つを組み合わせている点が、かえって強い印象を残します。
「夢」が持つ幻のような性質はイギリス・ロマン派の文学にも顕著ですが、現実にある物事を二重に映し出すというか、今風に言えば「何か特定の物事の隠し属性」や「裏設定」のようなものを露わにする機能がそこにはあります。
現世とつながっている「地下」の世界は、一見すると過剰な別世界のようですが、「夢」の中であるからこそ、実は現実の裏の顔を映し出しているという構造になっているのです。
そうした加筆の意味を合わせて捉えると、英文学の伝統に則りつつ、物語としてうまく昇華できている点だと言えるでしょう。
豊かな想像力によって、つまらないものを面白く見ることができるというのは大切なことですが、同時に物語の中では、面白いだけではなく「怖い側面」も見えています。
ナンセンスな笑いと恐怖は紙一重です。
このギリギリの均衡こそが作品として成立するバランスなので、映像化などでどちらか片方に偏ってしまうのは、理由はわかるけれど納得はできないところがあります。
そして、作品の最後にある「個人的な思い出の振り返り」から「作品全体の要約と構造の確認」へと書き換えられた部分は、非常に巧妙です。
個人から社会人へ、贈り物から作品へ、という変化がここにははっきりと表れています。
それでいて『不思議の国のアリス』のこの締めくくり方は、学術的な論文を書き慣れている人らしい構成です。
単なる「夢オチ」ではないという種明かしにもなっていますし、個人の「思い出」は巻頭の詩として、作品本体から外に出しているという点も、非常に注目すべき手法でしょう。『地底』から『不思議』へと具体的な言葉が書き換えられたなかで、「ふしぎ」が「とっぴ」に変わったのは、この部分が外側から客観的に語られた話だからでしょう。
一方で、「めぐった話」が「ふしぎの国のゆめ」へと変わる場面で「ふしぎ」という言葉が使われるのは、こちらが主観的な話だからであり、全体を通しても主語と客体の関係はかなり整理されています。
さらに、「その場にじっと」が「妹がはなれた」へ、「アリス」が「妹」へと記述が変わったことも、視点の切り替えとして捉えられます。『地底』では姉という登場人物に自分自身を重ねていたのが、『不思議』では彼女に対して少し距離を置くような推敲がなされているとも読み取れるからです。
純粋な子供時代へのなつかしさから、想像力そのものを描く物語へと変化したことで、作品としての性格が大きく変わったとも考えられるポイントです。
7
これまでの視点を踏まえても、また体感的にも翻訳のしやすさは『地底』の方が上です。
ということは、『不思議』の翻訳には失敗がつきものだということになります。しかし、ミスがあったとしても「面白い」ということが伝わったり感じ取れたりするのは、根拠のない話かもしれませんが、翻訳という作業を超えて、言語の壁を突き抜けて伝わってくる「面白さ」がこの作品にはあるからかもしれません。
最後に、とてもくだらない話で恐縮ですが、このお話は「『賢者モード』の状態でないと訳せないのではないか」というのが正直な感想です。
「賢者モード」という言葉がどういう意味なのかを私から説明するのは難しいので、気になる方は検索などで調べてみてください。キャロル後期の作品は、訳者から見ても対象との距離感に少し疑問を感じる部分がまったくないわけではありません。しかし、『不思議』にはそうした雑念がありません。
牧師さん特有のものなのか何なのか、精神的にはとても静かなのです。
物語を語る際に黒い手袋をはめていたというキャロルには、いわゆる「美少女へのフェティシズム」など微塵もなく、むしろ主人公への態度は時に冷たく、儚げでさえあります。
階級社会における「上品でありながら嫌味で強気」な少女であるアリスは、一人の少女としては「怖がりなのに虚勢を張る」のですが、やがて「とんでもない状況をもすぐに楽しむ」ようになり、ついには「ふしぎ」の本質が「ナンセンス=からっぽ」であることを見抜き、その世界を壊すと同時に自分の夢をも崩してしまいます。
チェシャ猫を導き手としたその発展(あるいは成長)は、無自覚な異邦人から意識的なトリックスターへの変化にも見えます。その一方で、ある種の自傷や喪失もその先に透けて見えるからこそ、最後のなつかしさが痛ましいものとなっているのでしょう。
ともかくも、(ミュージカル版から数えれば2009年4月からなので)長かった翻訳もひとまず一区切りです。
何が大変だったかといえば、キャロルという作家の役作り(訳作りではなく)でした。
コメント