初級翻訳・生きた人形 第2話

小川 未明

これを聞いた少女は、月の光の下で、冷たい霜に悩まされたか弱い花のように、すっかりとしおれてしまいました。
「おばあさん、どうしたら私はこの広い世の中で、たった一人の兄さんにめぐりあうことができるのでしょうか……」
と、少女は切なく訴えました。
白髪頭のおばあさんはしばらく考え込んでから、こう言いました。
「それはね、いろんな人たちがたくさん出入りするところへ行って、たくさんの人に自分のお兄さんの話をあちこちで聞いてみてもらわなきゃ、分かるわけがないだろうよ。
私がいいところへ連れていってあげるから、明日の晩、町のはずれにある橋の上に来て待っていなさい。
絶対にだよ、約束だよ。
おまえさんの身の上を悪いようにはしないからね」
おばあさんはそう言いました。
少女は、なんて親切なおばあさんなんだろうと思いながら、その夜はその場でおばあさんと別れて宿へと帰っていきました。
そして翌日になると、少女は、今日で人形の身代わりとして店の店先に立つ最後の日なのだと思うと、町の景色を眺めるにつけても、なぜだか言いようのないもの悲しさを感じていたのでした。
この呉服店の主人は、気さくでとても面白い人でした。
少女が自分の身の上を打ち明けて話したのは、おばあさんと主人のたった二人だけだったのですが、主人はどうにかして彼女をお兄さんに合わせてやりたいものだと陰ながら心配していました。きっと新聞の記者にその話を教えてあげたのでしょう、この出来事が地元の新聞に大きく掲載されたのです。
すると、生きた人形の感動的な身の上話は、またたく間に町中に広まっていきました。
ちょうど、そんな日のことでありました。
一人の青年が、急いで呉服店を訪ねてきたのです。
「私が、兄です」
そう言って、青年は少女との面会を求めました。
けれど、二人は子供の頃に生き別れていたため、少女にはお兄ちゃんの顔の記憶などまったく残っていませんでした。
「本当に、お兄ちゃんなのでしょうか……?」
少女は美しい大きな目で、じっとその青年を見つめました。
「なにしろ十年もの歳月が流れたんだから、忘れてしまったって無理もないさ。
だけど、僕には雪ちゃんの小さな頃のかわいらしい姿が、今でもありありと目に焼き付いているよ」
青年はそう語ると、続けて言いました。
「僕だって、並み大たいていの覚悟で家を出たわけじゃない。りっぱな画家にならなければ、二度と故郷には帰らないと決めていたんだ……」
そして青年は、ふところからお母さんの写真を取り出して、妹に見せたのです。
「一日だって、お母さんのことを思い出さない日なんてなかったよ」
そう言いながら、青年はポロポロと涙をこぼしました。
少女は、目の前のこの人が自分のお兄ちゃんなのだと心から信じ、もう疑う余地などありませんでした。
嬉しさと悲しさが同時に押し寄せてきて、胸がいっぱいになり、まるで張り裂けそうでした。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん……! ああ、私、ついに、ついに本当にお兄ちゃんに会えたんだわ。
お母さん……どうして逝ってしまったの、お母さん……!」
少女は兄の胸にすがりつき、声をあげて泣きました。
そして少女は、もしも今日この場所でお兄ちゃんにめぐりあえていなかったなら、今夜の晩にはあの怪しいおばあさんに連れられて、また遠くのどこかへ連れていかれてしまっていたことだろう……と、これまでの経緯を兄に話しました。
すると、兄は驚いたように言いました。
「それは、片目の白髪のおばあさんじゃなかったかい?」「片目だったかもしれません。
たいへんに親切な……」
すると、そばですべての話を聞いていた店のご主人も、そしてお兄さんもびっくりして、
「あのおばあさんに目をつけられたら、もう絶対に逃げることはできないんだ。
あれは恐ろしい人間のさらい屋なんだよ! 仲間が何人いるのかも分からない。
きっと港町のほうへ、おまえを売り飛ばすつもりだったんだ。
どちらにしても、一刻も早くこの町から逃げ出さなければならない!」
と言いました。
それは、その日の夜のことでした。
あちらでは、港のほうの空を、明るい街の灯りが赤々と染め上げていました。
そして、汽笛の音や、さまざまな物音が、こちらの町の方まで聞こえてきました。
また一方では、はるか彼方に、青黒い山々が、よく晴れた月の明るい空の下に、どこまでも果てしなく連なっていました。
その広大な野原を、青い着物を着て、頭に淡い紅色の布をかぶって顔を隠し、白い馬に乗り、馬子に手綱を引かれながら、とぼとぼと山の方をめざして進んでいく女の姿がありました。
馬は何も言いませんでした。
乗っている人も何も言いませんでした。
そして、馬を引いていく人も何も言いませんでした。
ただ月の光に、あたりはぼんやりと夢のようにかすみ、はてしなく広い野原の中に、この一行の姿はまるで一枚の絵のようにぽつんと浮かんで見えたのです。
そのとき、黒い人影が、その後を追いかけてきました。
二人、三人、それぞれ手に棒を持って大声でわめきながらやってきました。
ついに彼らは馬に追いつくと、その行く手を遮り、
「青い着物を着ている。
この女だ。
もう絶対に逃がしはしないぞ!」
と、追いかけてきた者たちは言いました。
馬子はたまげて、その男たちの様子をじっと見つめました。
「おい、この女をどこへ連れて行くつもりだ?」と、一人が尋ねました。
「このお方はものも言えぬお方でございます。
そして、今夜のうちにあの山のてっぺんのお寺までお連れすることになっておりますので。
夜が明けると尼さんになられるのだそうでございます……」
と、馬子は答えました。
「まあいい、とにかくここから馬を町まで戻せ!」と、追っ手たちは迫りました。
再び月の明るい野原を歩いて、一行が町はずれの橋の上までやって来ると、白髪のおばあさんがそこに立って待ち構えていました。
「よくも私に黙って逃げたな!」
とおばあさんは怒って、馬から女を引きずり下ろし、女がかぶっていた布を取りのけると、恐ろしい目でその顔をにらみつけました。
「えっ、これは……本物の人間(人形)じゃないか!
私は『生きた人形』(の身代わり)を連れてこいと言ったんだ!」
とおばあさんは叫びました。
まわりの者たちも、何が何だか分からずぽかんとしながら、その人形を見つめました。
こうしている間に、本物の少女は、すでにお兄さんとともにどこへやら、この町から遠くへ去った後なのでありました。

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