初級翻訳・良寛物語 手毬と鉢の子 第15話

新美 南吉

お祖母さんは、貧乏人のガキまでついてきたので憎らしいという顔つきをしましたが、仕方がないので新太郎ちゃんにも西瓜(すいか)をくれました。
切れ端のところをほんの少しだけ。
西瓜はおいしかったです。ですが、そのあとで三人が庭に出てくると、大変なことが待っていました。
ミツちゃんが兄さんのいない間に、とうとう欲望を抑えきれなくなり、兄さんの弓に触れてしまったのです。
そして、さらにいけないことに、大事な紙鳶を的の代わりにしてしまったのです。
一本の矢は、紙鳶に描かれた役者の右の目を貫いて突き立っていました。
「ミツの馬鹿っ!」
と惣兵衛ちゃんが怒鳴りました。
やっぱり惣兵衛ちゃんには、あの紙鳶を買うために新太郎ちゃんがどれほど苦労したか分かっていたのだ、と栄蔵は瞬時に思いました。
しかし、それも栄蔵の早合点でした。
惣兵衛ちゃんはミツちゃんのところへ飛んでいくと、弓をミツちゃんの手からひったくり、ついでにミツちゃんの頭を三回叩きました。
そしてミツちゃんがわあんと泣き出しても見向きもせず、弓の具合が悪くなっていないかどうかを細かく調べました。
ミツちゃんは希望は遂げたものの、その報いがあまりに厳しかったので、ありったけの声で泣きながら家の中へ入っていきました。
栄蔵と新太郎ちゃんは呆気にとられて立ち尽くしていました。
すると惣兵衛ちゃんは、弓の具合をさらによく調べてみるために、矢を一本取って弓につがえました。
栄蔵は目の前が暗くなるような思いがしました。
新太郎ちゃんは「あっ」と声を上げました。
惣兵衛ちゃんが、新太郎ちゃんの紙鳶を狙ったのです。
「バサッ。」矢は見事に的に当たりました。
 そして、役者の胸のあたりを大きく突き破ってしまったのです。

 ――これは、一体どういうことだろう。

 なるほど、新太郎ちゃんが返した以上、もう惣兵衛ちゃんの紙鳶(たこ)であることに間違いはありません。
 ――だが、これはあまりにひどいことではないか。

 栄蔵と新太郎ちゃんは、もう何も言えず、ただ黙り込んでしまいました。こんな家にこれ以上長くいる理由なんて、どこにもありません。二人はろくに挨拶もせず、外へと出て行きました。
 栄蔵は、心にポッカリと大きな穴が開いてしまったようで、何も考えることができませんでした。二人はお互いに視線を避け合うようにして、道のりの大部分を黙ったまま歩きました。紙鳶のことなんて、もう思い出すのも嫌でした。

 道端に石が立っていました。そこが、栄蔵と新太郎ちゃんが別れる分かれ道です。そこまで来ると、新太郎ちゃんが初めて口を開きました。

「栄坊ちゃん、俺、明日からね、父ちゃんについて山の方へ縮(ちぢみ)買いに行くんだよ」

 栄蔵が見ると、新太郎ちゃんは寂しそうに微笑んでいました。栄蔵の胸に、グッと悲しみがこみ上げてきました。

「どうして?」

 栄蔵は、せきこむように尋ねました。

「俺、もう子供じゃないもん。商売に行くんだよ」

「…………」

 栄蔵は二度ほどまばたきをして、新太郎ちゃんと別れました。日暮れの道に映る、自分の細長い影を見つめながら、栄蔵は歩いていきました。すると不意に、何か強い力が胸の底から湧き上がってきました。それは「怒り」でした。

 ――こんなことがあるものか。

 新太郎ちゃんが、あんなに苦労をして買い戻した紙鳶を、目の前で破ってしまうなんて。これには、何か絶対にいけないものがある。返したのだから、もう新太郎ちゃんに文句を言う筋合いはないはずだけれど、何か理不尽なものを感じるのです。

 一体、それは何なのだろう。

 こうして考えてみると、こうした理不尽や不正が、世の中には実にたくさんあるように栄蔵には思えてきました。子供たちの間だけでなく、大人たちの世界にも。

 ――一体、何なんだろう。どうしてこんなことがあるんだろう。
 ――どうして惣兵衛ちゃんは、もっと新太郎ちゃんの気持ちを汲んでやれないんだろう。そうすれば、こんな悲しいことにはならないはずなのに。
 ――どうして力のある人々は、力のない人々のことを思ってやらないのだろう。どうしてお金のある人々は、貧しい人々の気持ちを察してやらないのだろう。

(……)

六 寺にはいる

 ある日の午後、尼ヶ瀬町の光照寺というお寺に、きちんとした身なりの若者が一人訪ねてきました。
 玄乗破了(げんじょうはりょう)和尚さんが玄関へ応対に出てみると、若者は蒼白い顔をうつむけて、庭の梅の木の下でしょんぼりと立っていました。

「どなたかな?」

 和尚さんが尋ねました。

「出雲崎の者です」
「うん、出雲崎の? して、御用は何かな?」
「これといって用事もありません」
「用事がない? それでは遊びに来られたのかね」
「いいえ」
「面白いことを申される御仁じゃな。用事でもなければ遊びでもない……。出雲崎の何という家かな?」
「橘屋(たちばなや)です」
「おお、橘屋か。それではあなたは若主人の……」
「はい、この度名主職(なぬししょく)を受け継ぎました栄蔵です」
「おおそうか、知っておる知っておる。しばらく見ないうちに大きく、立派になられたのう。わしは見それてしまったわい。まあ、上がられるがよい」

 栄蔵は和尚さんについて庫裏(くり)の炉端へ行きました。

「客間へ案内するのが本当だろうが、客間は寒いので、この乱雑なところへ案内しましたわい。さあ、楽に座ってくだされ。禅宗のお寺と来ては無愛想だからな、こんなことですわい」

 和尚さんは小僧に枯れ枝や柴を持ってこさせると、それを炉にどんどんくべました。

「ひどく浮かぬ顔をしておられるが、何かあったのかね?」
「わたしは、もう無茶苦茶なんです」
「何が?」
「何が何だか、ちっとも分かりません」
「お前さんは一体、何のことを言っているのかね」
「わたしは胸がいっぱいなんです。いっぱいで、無茶苦茶なのです」
「喧嘩でもしたのかい。声がひどく嗄(か)れているようだが」
「一人で、誰もいないところで喚(わめ)いてきたのです。喉が破れて、血を吐いて死んでしまえばよかったのです」
「まあ、お茶でも召されよ。そう一途に思いつめては事を仕損じますぞ。世の中のことは、なるようにしかならんからのう」

 和尚さんは自分で淹れたお茶を、音を立ててすすりました。風が出たのか、裏の林が騒がしく鳴っています。

「和尚さん」
「何かね、そんなに改まって」
「…………」
「どうかしたのかね?」
「わたしは、大変なものを見てきたんです。人間が、人間を処刑するのを」
「ほう?」
「わたしは刑場からやってきたのです。今日、一人の罪人が刑に処せられました」
「おお、そうか。そんなことを聞いていたな」「さっき、門の前を大勢の人が通り過ぎていったが、あれは見物人たちだったのかね」
「はい……。ああ、本当に可哀そうなことでした」
「お前さんは、またどうしてそんなものを見に行ったのかね」
「罪人が、私の町の者だったのです。私は名主(なぬし)として、立会人にならなければなりませんでした」
「そうか、出雲崎の者だったのか」
「私はあの者を、小さい頃から知っています。たしかに悪い人間でした。

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