初級翻訳・鉄塔の怪人 第9話

江戸川 乱歩

しかし、手をかけたかと思うと、探偵はハッとしたように厳しい顔つきになりました。

「賢二君、ちょっとそちらを向いてごらん。きみの背中に、なんだか這っているよ」

賢二少年が気持ち悪そうにして後ろを向くと、その学生服の背中に、黒くて大きな虫がモゾモゾと動き回っていました。

「あっ、ドクロの模様だ!」

書生の青木が、とっぴな声を上げました。それはドクロ模様のついた、一匹のカブトムシだったのです。明智がサッと手ではらうと、カタンという音を立てて妖虫は床に落ちました。あおむけになって不気味な足をモガモガと動かしていましたが、そのうちにクルッとひっくり返ると、そのまま部屋の隅の方へとかけだしていくのでした。

賢二少年はもちろん、お父さんの高橋さんも顔色を変えました。

「前触れだ。あいつがやってくるという前触れなんだ。明智さん、もうぐずぐずしてはいられません。早くなんとかしなければ……」

高橋さんは、いまにもあのおそろしい大カブトムシが窓から忍び込んでくるのではないかと、後ろを気にしながらおびえたように言いました。

「広田君が帰ってこないことといい、いまのカブトムシといい、どうもこのまま放っておけませんね」

明智はそう言ってしばらく考えていましたが、やがて口を開きました。

「高橋さん、東京都内にご親戚があるでしょう。一時、賢二君を親戚にでも預けてみてはいかがでしょうか。幸い、ぼくの自動車が表に待たせてありますから、あなたと賢二君とが人目につかぬように急いで乗り込むのです。ぼくも一緒に乗ります。そして、あなたが指示する場所へ車を走らせるのです」

高橋さんは、賢二君をこの家に置いておくのも心配だし、かといって外へ連れ出すのもなんとなく気味が悪いと思いましたが、こういうことには慣れている名探偵が繰り返し勧めるので、ついその気になりました。そこで高橋さんは、奥さん(賢二君のお母さん)とも相談したうえで、賢二君を下谷の親戚に預ける決心をしたのです。

書生の青木に見張らせておいて、高橋さんと賢二君と明智探偵は、すばやく表の自動車に乗り込みました。高橋さんが小声で行き先を告げると、自動車はすぐに走り出しました。高橋さんは自動車の後ろの窓からしばらく町を眺めていましたが、誰もあとをつけてくる様子はありません。あとから走ってくる自動車もありません。このぶんなら、まず安心だと、そっと胸をなでおろすのでした。

しばらくすると、高橋さんはタバコが吸いたくなりました。和服の両方のたもとを探しましたが、確かに入れておいたはずのピースの箱がありません。賢二君を真ん中にはさんで、向こうの端に腰かけていた明智探偵が、その様子に気づいて声をかけました。

「高橋さん、タバコならここにあります。さあ、ご遠慮なく」

それは西洋の葉巻タバコでした。高橋さんはタバコ好きで、ことに葉巻は大好物でしたから、それを受け取って火をつけると、スパスパとやりはじめました。

「いかがですか、その味は? ぼくはタバコだけは贅沢をしているのですよ」

「いや、結構です。久しぶりにうまいタバコを吸いました。ありがとう」

走る自動車の中には、紫の煙がもやのように漂い、葉巻の先がだんだんと白い灰になっていきました。それから五分ほど自動車が走ったころ、高橋さんの口から半分ほどになった葉巻が、ポロッと座席の床に落ちました。隣の賢二君がびっくりしてお父さんの顔を見ますと、お父さんは後ろのクッションに頭をグッタリとよせかけて、かすかにいびきを立てて眠っているのでした。

「おとうさん、おとうさん!」

賢二君がいくら揺り起こしても、目を覚ます様子がありません。なんだか変です。こんな場合に眠ってしまうなんて、日頃のお父さんらしくもありません。

「賢二君、いくら呼んだって、お父さんは起きやしないよ」

明智探偵が、いままでとは違った、乱暴な口調で言いました。

「なぜです。なぜ起きないのです」賢二君は、なんだかギョッとして、聞き返しました。
「葉巻を吸ったからさ。あの葉巻にはね、麻酔薬が仕込んであったのだよ。ハハハハハ」
「だれです? おじさんは、だれです?」
 賢二君は、夢中になって叫びました。
「分からんかね。賢二君、ほら、ちょっと前を見てごらん」
 不気味な声に、思わず前の運転席を見ました。
「あっ……!」
 賢二君は、恐ろしい叫び声を上げたかと思うと、いきなり眠っているお父さんにしがみついて、その膝に顔を隠してしまいました。
 運転席には、何がいたのでしょう。今まで人間だとばかり思っていた運転手が、いつのまにか恐ろしい姿に変わっていたのです。
 そいつには、恐ろしく長いツノがありました。真っ黒な背中には、大きな骸骨の顔が、こちらをじっと睨みつけていました。ああ、この自動車は、あのおそろしい妖虫が運転していたのです。
 そいつが、長いツノを振り立てて、グッとこちらへ振り返りました。お皿ほどもある大きな二つの目が、怪しい光を放って、賢二君をじっと見つめました。

魔法の杖

 お話は少しあとに戻りまして、時間で言えば、偽の明智探偵が高橋さんのお宅へ訪ねて来るよりも前のことです。
 そのころ、明智探偵事務所の地下室では、偽探偵のためにそこへ閉じ込められた小林少年と、高橋さんの書生の広田とが、地下室を抜け出す相談をしていました。
 真っ暗な地下室の床が、丸くポッと光っています。小林少年の懐中電灯を広田が手にとって、床に並んでいる「探偵七つ道具」を照らしているのです。
 小林少年は、その七つ道具の中から、銀色に光った三十センチほどの長さの筒を取り上げて説明しました。
「これは魔法の杖ですよ。たった三十センチの筒が、たちまち三メートルに伸びるのです」
「へー、本当かい?」
 広田はびっくりしています。
「ほら、ごらんなさい。伸びるでしょう。手品師の持っている杖と同じ仕掛けです」
 銀の筒をサッと振ると倍の長さになり、もう一度振ると三倍、四倍、五倍、六倍と、いくらでも伸びていくのです。それは写真機を載せる三脚と同じ仕組みで、銀色の筒の中に少し細い第二の筒があり、その中にまたもっと細い第三の筒があるというように、十本の筒が重なり合っていて、それを次々に引っ張り出せば、おしまいには十倍の長さに伸びる仕組みなのです。
「ね、わかったでしょう。この長い棒があれば、地下室を抜け出すことなんかわけもありませんよ」
 小林少年は立ち上がって、その銀色の長い棒を天井の落とし蓋の方へ伸ばしました。
「懐中電灯で天井を照らしてください」
 広田が言われた通りに天井を照らすと、その丸い光の中に、落とし穴の蓋を止めている金具が見えます。小林君は背伸びをして、長い棒の先でその金具を横から叩くようにして、とうとう外してしまいました。
 すると、バタンと音がして落とし穴の蓋が下に下がり、そこに四角い口が開きました。小林君は七つ道具の中の絹糸の縄梯子を素早く解いて、鍵になった金具のついている一方の端を、天井の四角い穴に向かって投げ上げ、うまくそこへ引っ掛けました。金具は、何かに引っかかったら決して外れないようにできているのです。縄梯子といっても、ハシゴの形をしているわけではありません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました