初級翻訳・神州天馬侠 第67話

吉川 英治

そのせいで徳川勢と武田方の合戦は両軍引き分けになったと聞きましたが、人穴城から追い出された野武士たちは、駿河の方へは逃げられないので、たぶんこちらへ押し寄せてくるでしょう」

「えっ、野武士の残党がこっちへ逃げてくるんですか?」

「他に逃げ道もなければ、食料のある場所もありませんから、きっとここへやって来るに違いありません。ところで皆さん、私がここを通ったことは、もし彼らが来ても決して言わないでくださいまし。では、先を急ぎますから」

可児才蔵はそう言い捨てると、足早に集落を駆け出していきました。そして、甲州と信州の分かれ道に立ったとき、右手の道を急いで歩く男の影が先に目に入りました。

「ははあ、あいつは柴田勝家の回し者、上部八風斎(うわべ・はっぷうさい)だな。これから北ノ庄へ帰るつもりだろうが、いくら勝家でもここまで手が伸びるはずはない。やれやれ、ご苦労なこった……」

才蔵は苦笑しながらつぶやきましたが、自分はそれとは反対の、信濃境へ向かう道へと足を速めました。

二

法師野の集落は、それから一時間もしないうちに、昼間だというのに森のように静まり返ってしまいました。ただでさえ凶暴な野武士たちが逃げてきたとなれば、どんなひどいことをされるか分からないと、村中の家々は戸締まりをし、恐怖に震えていたのです。

案の定、その日の午後になると、この集落へ異様な落武者の一団がぞろぞろと入ってきました。彼らは各戸の入り口を蹴破ると、こう叫びました。

「ありったけの食い物を出しやがれ!」
「女や老人は森へ集まれ。そこで飯を炊くんだ!」
「村から逃げ出そうとする奴は、叩っ斬るぞ!」
「家はしばらくの間、俺たちの陣屋とする」

彼らは好き勝手なことを言って財宝を奪い、衣類や食料を強奪し、村の男たちを残らず縛り上げました。飢えた狼のような野武士たちが、我が物顔で家々になだれ込んできたのです。

逃げ延びてきた狼たちはわずか三、四十人の一隊でしたが、何せ武器を持った命知らずの集団ですからたまりません。中には呂宋兵衛をはじめ、丹羽昌仙、早足の燕作(えんさく)、吹針の蚕婆(さんば)までが混ざっていました。

あの夜、殿堂に火薬の爆発と炎が襲いかかったとき、さすがの昌仙もどうすることもできず、呂宋兵衛たちと共に例の間道から人無村(ひとなしむら)へ逃げ、かろうじて命拾いをしたのでした。しかし、多くの子分は城内で焼け死んだり、逃げた者も大半は徳川勢や伊那丸(いなまる)の手にかかり、捕らえられてしまいました。

城を失い、裾野での勢力を失った呂宋兵衛は、たちまち野盗の本性に戻り、逃げる道すがら通りがかりの村を片っ端から荒らしてきたのです。そして、このまま秀吉の居城・安土へ乗り込んで、助けを借りようという虫のいい考えを抱いていました。

ちなみに、一緒に逃げてきた可児才蔵は、こんな狼のような連中と関わっていては大変だと、いち早く途中から姿をくらまし、一足先に上方へ向かっていたのでした。

三

ここに、一世一代の大手柄を立てたのは鞍馬(くらま)の竹童(ちくどう)です。その得意顔といったら、推して知るべしでしょう。空を自由に飛び回る愛馬・クロにまたがり、竹童は燃えさかる人穴城を後にしました。久しぶりに京都の鞍馬山へ帰り、お師匠さまである果心居士(かしんこじ)に会って、得意げに事の成り行きを報告しようと思ったのです。ところが、山中の庵はもぬけの殻でした。ただ壁に一枚の紙が貼ってあり、そこには間違いなく居士の筆跡でこう書かれていました。

「竹童よ。誇るなよ。なまけるなよ。油断するなよ。お前の使命はまだ残っているはず。ふたたび我と会う日まで、心の紐をゆるめるなかれ。――果心居士」

「おや、こんな書き置きを残して、お師匠さまは一体どこへ消えてしまったんだろう」
竹童はがっかりしたり、不思議に思ったりして、しばらく庵の中でぼんやりとしていました。
「お前の使命はまだ残っている……おかしいなあ。お師匠さまの作戦は、言われた通りに見事に成功したのに……ああ、そうか! 徳川軍に囲まれた伊那丸(いなまる)さまが、勝ったのか負けたのか、生きているのか死んでいるのか、その結末を見届けていないのがいけないということかな。そういえば、可児才蔵(かに・さいぞう)という人から頼まれていた伝言もあったっけ」
と、急に思い出した竹童は、数日間ずっと眠らず動き回って、今にも閉じそうな目をこすりながら、再びクロに乗って富士の裾野へと舞い戻りました。

やがて、白砂青松(はくしゃせいしょう)が続く東海道の上空にさしかかったとき、竹童がふと下を見下ろすと、確かに徳川軍の亀井、内藤、高力といった武将たちが、三千人ほどの兵を率いて、旗を堂々と掲げ、まるで浜松城へ凱旋するかのような様子で歩いていました。
「おや、あの様子だと、裾野の合戦は伊那丸さまの負けだったのかな?」
竹童は急に心配になり、いてもたってもいられなくなってクロを急がせ、裾野の空へやってきました。すると、人穴から燃え広がった火がとどまるところを知らず、周囲三里(約12キロ)にわたってもうもうと煙を立てており、地上の様子は全く見えませんでした。

遠術日月の争い

一

七日七晩、燃え続けた野火の煙が裾野一帯に立ちこめ、昼間だというのに日食のように真っ暗です。
富士山の白い雪が銀細工のようなものなら、とっくに見る影もなく、すすけてしまったことでしょう。
見渡せば、あれほど立派だった人穴の殿堂はすべて灰になり、まるで鬼の焼き跡のように、ごつごつとした岩だけが真っ黒に残っていました。
すると、しばらくその焼け跡を見回っていた三人の影が、廃城の門からまっしぐらに駆け出してきました。
濛々(もうもう)と立ち込める煙をくぐり抜け、金明泉(きんめいせん)の近くまで来たとき、先頭を走っていた山県蔦之助(やまがた・つたのすけ)が、ふいにピタッと馬を止めました。
「おや? 両人とも、少し待ってくれ」
と、後ろから来た二騎――巽小文治(たつみ・こぶんじ)と木隠龍太郎(こがくれ・りゅうたろう)へ、手を振って押しとどめたのです。
「おお、蔦之助、呂宋兵衛(ろそんべえ)の残党でもいたか?」
「いや、よくは分からないが、あの泉のほとりに何か怪しい奴がいる。今、拙者が遠矢をかけて追い立てるから、あとは斬るなり生け捕るなり、おのおのの判断でやってくれ」
「うむ、承知した」
という返事よりも早く、龍太郎と小文治は金明泉に向かって馬を飛ばしていました。
蔦之助は、鷹の石打ちの矢を一本取って弓につがえ、馬の上で横構えにキラリと引き絞りました。
――駿馬・項羽(こうう)が一跳びで小一町(約100メートル)の距離を詰めると、
「やっ、しまった!」
と、そこまで来て龍太郎がびっくりしました。
なぜなら、今まさに金明泉のほとりから、笹の茂みをガサガサ分けて出てきたのは、呂宋兵衛の残党どころか、あの大切な、大切な鞍馬の竹童だったからです。
竹童は何も知りません。金明泉の水を飲んできたのか、袖で口をふきながらヒョイと岩の角へ飛び乗り、わざわざ蔦之助の的になってしまったのです。

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