初級翻訳・神州天馬侠 第133話

吉川 英治

手元へ引き戻し、穂先を短く構え直した神保大吉は、咲耶子が右へ動けば右へ、左へ動けば左へと、じりじりと追い詰めていきました。
その間に、黒川八十松、団軍次郎、その他の者たちが十二本の槍を揃えて、「ドッ」と咲耶子の前後から襲いかかります!

ああ、もう絶体絶命!
咲耶子は近くの敵を一人斬り伏せると、再び樺の林の中へと駆け込みました。
そこでは木々が密集しているため、十二人が同時に彼女を取り囲むことができません。
団軍次郎と神保大吉はそれを見るや否や、真っ先に林の細道へと踏み込みました。
そして、咲耶子を道の突き当たりまで追い詰めると、「ここぞ!」と気合いを合わせ、二本の槍を揃えて彼女の胸板へと突き出しました。

「あッ!」
一槍はかわしましたが――もう一槍が避けられません!
大吉が突き出した大身の槍は、かわす間もなく、咲耶子の胸から顎先へと迫りました。
「しまった――」と思ったその瞬間。
不意にどこからか、「ブン――」と虻(あぶ)のようにうなりを上げて飛んできた一つの独楽が、槍の首(ケラ首)へくるくると巻きつきました。
もちろん、槍は独楽の紐に引かれ、思わぬ方向へとたぐり寄せられてしまいました。

「やッ?」
神保大吉は、薄暗い林の中ではそれが独楽だとも何だとも分からず、力任せに手元へ引きました。すると、もう一方の独楽の紐も負けじと剛力をかけて引っ張ります。
すると、槍の柄に巻き付いた独楽は、双方の力に耐えかねてガラガラと火花を散らしながら、虚空で激しく回転しました。
「おうッ!」
と目を押さえてたじろいだのは、後から追いかけてきた裏切り武士たちです。
すでに林の夜は深く、相手の姿さえかすかにしか見えない闇の中。そこに、一つの松明(たいまつ)が回転しているかのように、独楽がブンブンと火を吹きながら回っているのです。
青か、赤か、紫か? 何色とも定かではない火の色が、まばゆく回る火焔車のように、空中で円を描いてこちらへ飛んできました。

「あッ!」
八方に逃げ惑いながら、その怪光をよく見ると、独楽を操っているのは紛れもない、鞍馬の竹童でした。
「竹童だ! 竹童がいたぞ!」
誰からともなく戦慄の声が漏れます。
「なんだと、竹童だと? たかが知れたガキではないか。うぬ、俺の槍先で突き殺してやる!」
神保大吉はそう豪語して再び槍を持ち直しましたが、時すでに遅し!
「びゅうと」音を立てて、独楽の紐が伸びました。
「ひイッ!」と叫んだ時には、大吉の喉元に独楽の分銅が食いつくように巻きつき、触れる場所すべてに火焔を浴びせました。
彼は顔を焼かれ、そのまま悶絶して倒れました。
相手が倒れると、火の魔独楽はまるで生き物のように竹童の手元へ戻りました。そして、ブンブンと片手に回しながら、次は誰の喉首へ飛ばそうかと狙いを定めています。

「おお、竹童が戻ってきてくれた!」
咲耶子は生き返ったような心地で叫びました。
「裏切り者よ! 徳川家の諜者だ! 竹童ッ! 早く味方の者たちにこのことを知らせて!」
「討てッ! 早く片付けてしまえ!」
残る十一人のうち、黒川八十松が叫び声を上げました。「こんな奴らに手間取って、もし砦の連中に感づかれたら、こっちの出口をふさがれてしまうぞ――早くその二人を殺してしまえ。もう生け捕りになどと言っている場合じゃない!」
「おうッ!」
「おおッ!」
 と叫び声があがると、槍の穂先がふたたび木立のあいだでギラギラと光った。
裏切り者だと聞いて、竹童も「これは一大事が起きた」と直感した。
林の中では使いにくい火独楽をしまい、面倒だとばかりに懐へと飛び込ませて叫ぶ。
「咲耶子さま、ここは竹童が引き受けました。あなたは早く砦の方へ!」
「いや、お前が早く知らせておくれ!」
「おいらは新手(あらて)だ!」
 聞く耳を持たぬ竹童。般若丸の刀を抜き放ち、いきなり無茶な勢いで一人を斬り伏せた。女性である咲耶子をこの危地に残しておいて、男たる自分が知らせに走るなんて、そんな嫌なことはできない!
 その様子を見て、咲耶子もどうしようもなく、一方の槍ぶすまを突き抜けてお花畑へと疾走した。
途中、一人の男に後ろから危うく投げ槍を食らわされそうになったが、間一髪でかわすと、滑り落ちるように砦の奥、二の丸の裏手へと降り立った。
だが。
降り立った途端、咲耶子は「あッ――大変!」と、初めて真っ暗になった遠い眼下に気がついた。
いつの間にか、あらゆる視界には夜の帳(とばり)が降りていた。
ただ遥かな麓のほうに、野呂川の水が蛇の皮のように光っているのと、やや東北の方角に、極めてかすかな赤い空あかりを認めることができる。
そこはおそらく、武田家の旧領地であり、いまは徳川家の代官支配となっている甲府新城・躑躅ヶ崎(つつじがさき)の城下であろう。
けれど、咲耶子を驚かせたのは水でも空でもなかった。
その甲府と小太郎山の中間あたり、すなわち釜無川のほとり、韮崎の宿から御所山の裾あたりにかけて、半里あまりの長さにわたって広がっている、人の気配、火の明かり、そして野陣の殺気である。
「見張りの者ッ――!」
 櫓(やぐら)を見上げて絶叫した。
「鐘を打て、鐘を打て! 番士、門衛の番士たち! 早く貝を吹いて武者溜まりへ味方をお集めッ――!」
 狂ったような勢いで、咲耶子は武者走りの柵際を呼び回った。
けれど、どうしたことか、「オウ!」と言って武具を引っ提げて駆け寄る部下もなく、肝心の櫓番がいる場所さえ、無人のようにシーンとしている。
それもそのはず。
かねてより今宵のことを画策していた裏切り者たちは、夕方の炊事時を見計らって、砦の用水――山から引く掛樋(かけひ)、泉水、井戸、そのほかの貯水池へ、酔魚草(すいぎょそう)や鳥兜(とりかぶと)といった毒草や毒薬をひそかに流し込んでいたのであった。
竹童は愛馬クロの餌を狩りに行っていたため、まだ夕食を摂っておらず、咲耶子も彼を探しに出て難を逃れていたが、それを知らずに毒水を飲み、それで炊いた飯を食った者たちは、おそらくちょうど今ごろ、毒薬が回ってきた時分なのである――。

三

 時刻はそれより少し前のこと――。
かの小太郎山の間道へかかり、首尾よく築城の迷道をさまよった末に、元の場所へ舞い戻った伊部熊蔵(いべくまぞう)と雁六(がんろく)、ほか六十人の金鉱山掘夫たちが、ぼんやりと徒労に終わった時間を過ごしていた時分である。
「ねえ、親方」
 と、やけに素っ頓狂な大きな声で、
「こんな歌を知ってますか、こんな歌を?」
 と、檜(ひのき)の沢を伝いながら、ぴょいぴょいと歩いてくる小僧があった。
「どんな歌を?」
 と応じたのは、その親方と見える変な顔をした男――見ると鼻欠け卜斎(ぼくさい)だ。
「水晶掘りの歌ですよ。これから甲州へ行こうっていうのに、水晶掘りの歌ぐらい知らなくっちゃ幅が利きませんぜ。ひとつ歌ってみましょうか」
 と、相変わらずな泣き虫の蛾次郎(がじろう)。
鼻の穴を天井に向け、喉仏の奥まで夕焼けの明かりに晒しながら、声いっぱいに、いい気になって歌い出した。
どうせ山の中だからと、卜斎も構わずに放っておくものだから――。

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