「あッ!」
ドボーン! ……とスイカほどの大きさの黒い物体が落ちた。
一度深く沈んでから、ボカッと泡立つ水面に浮きあがってきたものを見ると、それは若い武士の生首だった。
胴のない生首は、まるで水中で立ち泳ぎをしている人間のようにグルリとまわって、足軽のほうへと顔を向けた。
「おッ……黒川八十松(くろかわやそまつ)さまの首だ!」
驚く間もなかった。ゴーッという一陣の強風にのって、低く黒雲のように旋回しながら降りてきた一羽の大鷲があった。
その瞬間、扇縄(おうぎなわ)の水の手からザアッと竜巻が吹き上がったかと思いきや、そうではない! いきなり鷲のくちばしが、竹童の帯をくわえて宙へ引き上げたのである。
高くつり上げられた竹童の体からは、夕立のような水しずくが降り注いだ!
「あ、怪物だッ!」
空を見上げていたふたりの兵糧方は、腰を抜かさんばかりに驚いて、具足をつけたままあちこちで寝ている武士たちを叩き起こして回った。
「逆襲か? ……」
「朝討ちか?」
寝ぼけ眼で武器を手にした侍や山掘夫(やまほりお)どもは、珍しい大鷲が少年をくわえて舞い上がったと聞き、野次馬根性でワラワラと貯水池のほうへ駆けつけた。
だが――昨夜、陣馬ヶ原(じんばがはら)で恐ろしい経験をした者たちは、
「あぶないぞ、油断するな!」
と、走りながら周囲の者へせわしなく注意を促した。
扇縄の水の手へ、生首となって落ちてきた黒川八十松は、城攻めの最中に、樺(かんば)の林につないであった竹童の鷲の鎖を切り裂いたのだ。
そして逆に、その鷲のために食い殺されるという非業の最期を遂げたのである!
「あぶないぞ、あぶないぞ! あの鷲は敵と味方をちゃんと見分けている。
だから、八十松の首をくわえてここに落としたんだ。
そして今、竹童を救いに降りてきたんだ!」
「気をつけろよ、うっかりしてあの鋭い爪につかまれるな!」
そう言いながら駆け寄った。
しかし――鷲の雄姿は、もう貯水池のまわりには見えなかった。
「おッ、井楼櫓(せいろうやぐら)の屋根に休んでいるぞ」
と誰かが見つけて、またいっせいにそのほうへ駆け寄った。
「わアーッ!」
と大勢が声を上げたので、翼を休めていたクロは、再び羽を打って舞い上がった。
けれど、さすがの大鷲も、二、三歳の赤子ならいざ知らず、竹童ほどの少年の体をくわえてそう長く飛べるはずはない。
水面から飛び立ったのが、限界の力だったのだろう。
櫓の上を離れると、さすがの猛鷲も、くわえている重量に引かれこまれていく。
見る間に、下へ――下へ――下へ――。
向こうの峰まで渡りきれずに、千尋(せんじん)の深さを思わせる小太郎山の谷間へと下がっていった。
そう見えたが、また……。
ついに力尽きたのか、途中で鷲と竹童の影は二つに分かれてしまった。
落ちていった小さな黒点は、目にもとまらぬ速さで一直線に谷底へ――そして狂った大鷲は、その刹那! 鉄砲組が一斉に狙い撃った弾丸の煙に包まれ、一瞬、その怪しい影は見えなくなった。
三
「あ。
竹童め、運のいいやつだ」
鉄砲組の後ろに立って、宙を見上げながら、こうつぶやいた人間がいた。
蛾次郎(がじろう)を連れた鼻かけ卜斎だった。
聞きとがめてヒョイとうしろを向き、
「なぜで?」
とたずねたのは伊部熊蔵(いべくまぞう)である。
毒薬を流した水の手へ投げ込まれ、そのうえ鷲にくわえ上げられて、深い谷底へ落ちていった竹童が、どうして運がいいのか――まったく理解できないという顔つきだった。
ところが卜斎は、もう一度同じ言葉を重ねて、
「まったく運の強いやつだよ」
と、少し悔しそうな顔をした。
「なぜですな? 卜斎殿」
「あいつめ、いまに蘇生します。
運がいいじゃありませんか」
「へえ、あの竹童が」
「昨夜は真っ暗でよくわからなかったが、いずれ毒水を飲んだはずだ。朝になったら念のために、生死をたしかめに行こうと思っていたところなのだ」
「なるほど、竹童を投げ込んだのは、貴公でございましたな」
「ところが今見るに、あの鷲が宙へつり上げた……」「つまり竹童のやつ、わしが水の手へ投げ込んだ瞬間に、運よく杭か岩の角で脇腹を打ち、気を失ったにちがいない」
「ウ……ウム? ……」
「だから、毒水を飲むことはなかったんだ。もしあの水を飲んでいれば体重が倍以上に膨れ上がるから、いくら大鷲でもくわえて飛べるはずがない」
「しかし、あの深い谷間へ落ちていっては、体はバラバラになったでしょう」
「いやいや、あそこは深い檜(ひのき)谷で、何百年も人の手が入っていない密林だ。落ちても枝に引っかかるか、深い灌木(かんぼく)の上に落ちたはずだ」
「そりゃいかん!」
伊部熊蔵(いべくまぞう)は急に慌てだした。そして、さっさと周囲の武士たちを指揮して、「朝飯前の一仕事だ、竹童の死体を探し出せ!」と命じた。
「はッ」
そう言って鉄砲組から五、六人、足軽が十四、五人、山掘夫が四、五人――小頭の雁六(がんろく)も一緒に、まだ朝露の深い谷底へと降りていった。
「おいおい、そんな方角じゃない。もっと右だ、右の方の道を降りろ。まだまだずっと沢の方――あの檜林がこんもり茂っている向こうの谷だ」
熊蔵はあとに残って煙管(きせる)をくわえ、その煙管でしきりと上から方角を指示している。卜斎(ぼくさい)も崖っぷちに腰を下ろすと、大きな革の莨入れ(たばこいれ)を引っ張り出した。煙管をくわえる姿も、いかにも頑固そうな様子だ。もっとも、その当時はまだ煙草というものが南蛮から日本へ渡ったばかりで、道具もずいぶんと原始的なものだった。
すると、側にいた蛾次郎(がじろう)のやつが、
「くッ、くくくく……うふッ……うふふふふ……」
と横を向いて笑いだした。何がおかしいのかと伊部熊蔵が振り返ると、蛾次郎は口を押さえながら、横に座っている卜斎をそっと指さした。卜斎は何も知らず、頑固な煙管を斜めに構えて、スパリ、スパリと吸っている。見ると、彼の鼻の穴から煙がスーッと出ているのだ。誰だって煙草を吸えば鼻から煙が出る。何の不思議もない。けれど、鼻かけ卜斎先生が煙草の煙を吸って吐く段になると、一方の鼻の穴からは普通に紫煙が走るのに、もう一方の穴から出る煙はとんでもない方向へ噴き出すのだ。だから二本の煙が大股に開いて出ていく様子は、まるで鼻が顔中で威張っているような壮観だった。
「な、なるほど。こいつは恐れ入った鼻だ」
と、熊蔵も吹き出したいのを我慢して、横を向きながら腹の皮を押さえた。優雅に紫煙をふかしていた卜斎は、ひどく不機嫌そうな顔つきで、
(なんじら! 何を笑うか?)
と、口には出さないが目をギョロギョロとさせた。雲行きが悪い! 気づかれては大変だと、そういうことに敏感な蛾次郎はポイと立ち上がると、断崖の縁から谷を覗き込み、
「ウーム、みんな見えなくなったな。いまに竹童を担ぎ上げてくるだろうよ……」
と、つまらない独り言をつぶやいた。
「親方」
「なんだ!」
やはり機嫌が悪い。
コメント