お医者様という立場なのに、湿っぽい空気がご自分の体にどれほど悪いかなんて百も承知のはずなのにさ。わざわざ私をやきもきさせたいのねえ。
昨日の夜だって、わざわざわざわざ一晩じゅうテラスに出っぱなしだったし……
ドールン (歌を口ずさむ)「言うなかれ、君よ、青春を失いしと」
ポリーナ あなたはアルカージナさんとお話しするのに夢中になりすぎて……すっかり寒さも忘れていらしたのよ。
正直に白状なさいよ、あの人のことが好きなんでしょう……?
ドールン 僕はもう五十五歳だぞ。
ポリーナ そんなの言い訳にならないわ――男の人なんて、いくつになってもおじいちゃんなんて呼ばれないんだから。
それに、まだまだ昔の面影がある男前なんだから、世の女性たちにモテモテじゃないの。
ドールン で、そこで僕はどうすればいいっていうのかね?
ポリーナ 相手が女優さんだっていうと、あなたたちはいつだって蛾(が)が火に群がるみたいに目の色を変えるんだから。
いつだってそうなのよ!
ドールン (また歌を口ずさむ)「われふたたび、おんみの前に、恍惚として立つ」……たとえ世間が、役者というものを特別な存在として、商人なんかとは別扱いにするにしたところで、まあ理の当然というものさ。
それこそが――いわゆる理想主義ってもんだよ。
ポリーナ 女の人がいつもあなたに夢中になって、あなたの首っ玉にしがみついてきたわよね。
あれもその、理想主義ってやつなわけ?
ドールン (肩をすくめながら)はてねえ? 婦人方というのは、結構僕のことを尊重してくれたものさ。
まあ、それも主として、腕利きのいいお医者さんとしてだけどね。
十年、十五年前にはご承知のとおり、この僕だってこのあたりじゃたった一人の、頼りになる産科医だったからねえ。
おまけに僕は、いつでも実直な男だったしね。
ポリーナ (ドールンの手をがっちり掴みながら)ねえ、あなたって人は……!
ドールン シッ、誰か来るぞ。
アルカージナがソーリンと腕を組んで現れ、続いてトリゴーリン、シャムラーエフ、メドヴェージェンコ、マーシャがぞろぞろと登場する。シャムラーエフ 一八七三年のポルタヴァの定期市でね、あの女優がすばらしいお芝居を見せてくれたんですよ。もう、びっくりするほど素晴らしくて、本物の名人芸でした! それから、ついでに教えていただきたいんですが、喜劇役者のチャージン――あのパーヴェル・セミョーヌィチは、今どこにいるんでしょうか? 彼が『クレチンスキイの結婚』っていう喜劇のラスプリューエフ役を演じたら、それはもう世界で一番でしたね。モスクワ小劇場のサドーフスキイよりも上手だったなあ。本当にねぇ、奥さん。あぁ、彼は今どこにいるのやら……!
アルカージナ あなたはいつも、大昔の人たちのことばかり聞くんだから。そんなのわたしが知るわけないでしょ!(座る)
シャムラーエフ (深いため息をついて)パーシカ・チャージンヌ! あんな役者、今じゃもうどこにもいやしない。今の演劇界はすっかりダメになっちまったんだよ、アルカージナさん! 昔は大木みたいにすごい役者たちが揃っていたのに、今じゃ切り株ばっかりだ。
ドールン たしかに、昔みたいなまばゆいばかりの大スターは少なくなったかもしれないね。だけどその代わり、ふつうの役者さんたちは、ずっと上手になったと思うよ。
シャムラーエフ それはちょっと賛成できませんねぇ。まあ、好みの問題ってやつですか。ラテン語にもある通り、「趣味について論ずるなかれ、さもなくば沈黙せよ」ってやつですよ。
トレープレフが、即席の舞台の裏からひょっこり姿を現す。
アルカージナ (息子に向かってねえ、うちの坊っちゃん、お芝居はいったいつまったるの?
トレープレフ もうすぐ始まりますよ。ちょっとだけ待ってくださいね。
アルカージナ (シェイクスピアの『ハムレット』のセリフのまねをして)「おお、ハムレット、もう何も言わないでちょうだい! あなたの言葉で初めて見てしまったわ、この魂のきたなさを。どうやったって落ちやしない、真っ黒に染みついた心の汚れをね!」
トレープレフ (これまた『ハムレット』のセリフで)「いやさ、油汗でベタベタの汚い布団で寝転がって、豚みたいなやつとイチャイチャしてさ……」
仮舞台の裏から、プーッと角笛の音が鳴り響く。
トレープレフ さあ皆さん、いよいよ始まりますよ。お静かに願います。(ちょっと間を置いて)じゃあ、まずは僕からいこう。(細い杖をトントンと突いて、大きな声で)おお、昔の歴史ある影たちよ! 夜になると、この湖の上をフワフワさまよう影たちよ! どうか僕たちを眠らせてくれ、そして二十万年後の世界の姿を、夢に見させておくれよ!
ソーリン 二十万年たったって、そんなの何にもありゃしないさ。
トレープレフ だからこそ、その「何もないところ」を夢に見させるんじゃないですか。
アルカージナ ご自由にどうぞ。わたしたちはもう寝させてもらうから。
カーテンがスーッと上がり、湖の景色がパッと広がる。月はちょうど地平線の上に浮かび、湖の水面にキラキラと映っている。大きな岩の上に、真っ白い衣装をまとったニーナがじっと座っている。
ニーナ 人間も、ライオンも、ワシも、雷鳥も、角の生えたシカも、ガチョウも、クモも、水の中にいるしゃべらない魚も、海にいるヒトデも、人間の目には見えない小さな微生物も――つまりはすべての生き物、生きとし生けるものは、悲しいめぐり合わせの旅を終えて、みんないなくなってしまった……。もう何千年も、地球の上には一匹の生き物も乗っていなくて、あの哀れな月だけが、ぽつんとひとり寂しく明かりをともしている。牧場では、朝に目覚めるツルの鳴き声もすっかり聞こえなくなった。ボダイジュの林では、コガネムシの音すらもしない。寒い、寒い、寒い。中身がからっぽで、からっぽで、からっぽだ。気味が悪い、気味が悪い、気味が悪い。(少し間)すべての生き物たちの体は、灰になって消えてしまった。永遠の物質が、それらを石に、水に、雲に変えてしまったけれど、生き物たちの魂だけは、一つに混ざり合った。世界中にあふれている一つの大きな魂――それがわたしなの……このわたしなんだ……。わたしの中には、あの強かったアレクサンドル大王の魂もある。カエサル(シーザー)のも、シェイクスピアのも、ナポレオンのも、そして最後に残ったドジなヒルの魂まで、ぜんぶ入っているんだ。わたしの中には、人間の考える力と、動物の野生の本能がまざり合っているの。だから、わたしは何もかも、残らずぜんぶ覚えている。わたしは、一つひとつの人生を、また新しく生き直しているのよ……。
あちこちに、フワフワと青白い鬼火が浮かび上がる。
アルカージナ (小さな声で)なんだか、すっごく暗くて不気味なお話ねえ……。
トレープレフ (お願いするような、責めるような目で)お母さん……!
ニーナ わたしはひとりぼっち。百年に一度、こうして口をひらいて言葉を話すの。だけどわたしたちの声は、この何もない空間にむなしく響くだけで、誰も聞いてはくれない……。お前たち、青い鬼火も、わたしの声を聞いちゃくれない……。
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