初級翻訳・かもめ 第7話

かもめ

……僕が言いたいのはね、いいかい――君は抽象的な大きな世界からテーマを持ってきた。
これは大正解だ。
なぜなら、芸術作品というものは必ず、なにか大きな思想を表現するべきものだからね。
真剣なものだけが美しいんだよ。
それにしても、なんて青白い顔をしてるんだい!
トレープレフ じゃああなたは――僕にこのまま続けろって言うんですね?
ドールン そうさ。
……ただね、もっと重要で、いつの時代にも変わらない普遍的なことを書くんだな。
君も知っているとおり、僕はこれまでの人生を、いろんな変化をつけながらも、自分らしさを失わずに過ごしてきた。
僕は今の人生に満足しているよ。
だけどね、もし万が一、芸術家がなにかを創り出すときに味わうような、あの強烈な精神のハイテンションを、ほんの一瞬だけでも味わうことができたとしたらね、僕は自分を包んでいる物質的なめんどくさい殻も、まわりのあれやこれやも全部かなぐり捨てて、この地上からビューンと舞い上がっちゃうに違いないね!
トレープレフ お話し中申し訳ありませんが、ニーナさんはどこに行ったかご存じですか?
ドールン それに、もう一つ大事なことだがね、作品にははっきりとした、一本筋の通った思想がなきゃいかんということだ。
なんのために書くのか、それを自分できちんと分かっていなければならない。
そうでなくて、なんとなく目的もなく、風景でも楽しみながら道を歩いていたら、君はすぐに迷子になって、せっかくの自分の才能で身を滅ぼすことになってしまうよ。
トレープレフ (いらいらした様子で)どこにいるんですか。ニーナさんは!
ドールン うちへ帰ったよ。
トレープレフ (絶望したように)そんな、どうしよう……! 僕はどうしてもあの人に会いたいんだ。
……絶対に会わなくちゃならないんだ。
今から追いかけてくるよ……

マーシャが登場する。
ドールン (トレープレフに向かって)まあまあ、落ち着きなさいって、君。
トレープレフ とにかく行ってきます。
行かなくちゃだめなんです。
マーシャ おうちに入りましょうよ、ねえ、トレープレフさん。
お母さまが待っていらっしゃるわよ。
すごく心配していらっしゃるんだから。
トレープレフ そう伝えてくれよ、僕はもう出かけたってさ。
君たちもみんな、僕のことはほっといてくれ! ほうっておいてくれよ! 後をついて回らないでくれ!
ドールン おいおい、君ねえ……そんな無茶な。
……それはよくないなあ。トレープレフ (なみだ声で)さようなら、先生。
どうもありがとう……(その場を去っていく)
ドールン (大きくため息をついて)若い、若いなあ!
マーシャ ほかに言うことがなくなると、みんなそう言うのね――若い、若いって……(お鼻にお薬のかぎタバコをポンと入れる)
ドールン (マーシャのタバコ入れを取り上げて、茂みの中にぽいと放り投げる)こんなもの、けがらわしい! (ちょっと間があって)おうちの中では、みんなでトランプ遊びでもやっているらしいな。
どれ、ぼくも顔を出すとするか。
マーシャ ねえ、ちょっと待ってよ。
ドールン なんだい?
マーシャ もう一ぺん、あなたに聞いてほしいことがあるの。
どうしても聞いてほしいのよ。
……(ちょっと興奮して)わたし、うちのお父さんは好きじゃないけれど……あなたには、すごく頼りにしているの。
なぜだか自分でもわからないけれど、心の底から、あなたが本当の家族のように親身になってくれる気がするのよ。
……お願いだから、わたしを助けて。
ねえ、助けてよ。
そうしてくれなきゃわたし、とんでもないバカなことをしたり、自分の人生をおちゃらけて、めちゃめちゃにしちまうわ。
……もうこれ以上、わたし……
ドールン いったいどうしたんだい? 何を助けてほしいっていうんだ?
マーシャ わたし、すごく辛いのよ。
誰も、誰ひとりとして、この苦しさがわかってくれないんだから! (先生の胸に頭をぎゅっと押しあてて、小声で言う)わたし、トレープレフのことが好きなの。
ドールン みんなどうしてこうも神経質な連中ばかりなんだ! なんて神経質なやつらなんだ! おまけに、どこもかしこも恋の話ばっかりじゃないか。
……ああ、ぼくを迷わせるこの湖よ、ってやつだな! (やさしく)だって、このぼくに一体なにができるっていうんだい、ねえ? いったい何が? どうしろって言うんだ?

――ここで第一幕はおしまい――

第二幕

明るいクロケットの庭。
右手のおくの方には、大きなテラスのついたおうちが見える。
左手には大きな湖が広がっていて、きらきらと太陽の光を反射している。
庭のあちこちには、きれいな花壇がいっぱい。
時間はまひる。
ものすごい太陽の暑さ。
コートの横手、古い菩提樹(ぼだいじゅ)の木の陰に、ベンチがひとつ置いてある。
そこには、アルカージナ、ドールン、マーシャの三人が腰かけている。
ドールンのひざの上には、開いた本が乗っている。
アルカージナ (マーシャに向かって)ねえ、ちょっと立ってみましょうよ。
(ふたりともすっと立ちあがる)こうして並んでごらん。
あんたは二十二歳、わたしはちょうどその倍の歳ね。
ねえ、ドールンさん、どっちが若く見える?
ドールン そりゃああなたですよ、もちろん。
アルカージナ でしょ……じゃあ、どうしてだかわかる? それはね、わたしがいつも働いていて、いろんなことに感動して、しょっちゅう気を使っているからよ。
ところが、あんたを見なさいよ、いつも同じ場所でじっとしているだけで、これじゃあ全然生きているうちに入らないわ。
……それにわたしには、大事なモットーがあるの――それは、「未来をのぞき見しない」こと。
わたしは自分の年のことや、死ということについて、いままで一度だって考えたことがないんだから。
どうせ人生、なるようにしかならないんだもの。
マーシャ わたしはなんだか、こんな気がするの――自分がまるで、もうずっと大昔から生まれていたみたいにさ。
お祝いのときにおめかしして着る、あの長ったらしいスカートみたいに、自分の人生をずるずる引きずっているような気がするのよ。
……もう生きていたくないな、なんて気持になることだってしょっちゅうだわ。
(またベンチにどきっと腰を下ろす)でも、こんなこと考えてもくだらないわよね。
気を取り直して、こんな嫌な妄想なんて追い出しちゃわなくちゃ。
ドールン (小さな声で歌を口ずさむ)「おや、ぼくの伝言を伝えておくれ、おお、きれいな花々よ」……(※オペラ『ファウスト』に出てくる歌だよ)

アルカージナ それにわたしは、まるでイギリス人みたいにいつもキチンとしているの。
いいこと、わたしはいつも、いわばピーンと張りつめた気持ちで、格好も髪かたちも、いつだって完璧(かんぺき)に整えているんだから。
たとえちょっと家を出るにしたって、ほら、こうやってお庭に出る時だって、――部屋着のまま髪もボサボサで、なんてことが今まで一度でもあったかしら? とんでもないわ。
わたしがこうやっていつまでも若々しくいられるのは、まわりの連中みたいにぐうたらな真似をしたり、自分を甘やかしたりしなかったからなのよ。

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