一 風見章さんのこと
前司法大臣の風見章(かざみあきら)閣下、とこう書き記すと、なんだかもの凄くえらい人物になってしまい、僕なんかではとても手が届かない存在になってしまう。
しかし、前・大阪朝日新聞記者の風見章、とこう書けば、僕のような者であっても気安くものを言うことができる。
そこで、僕がその頃の風見さんの思い出話をすることにしよう。
その頃、僕はその大阪朝日新聞社の社会部の記者であった。
当時の同僚といえば、この記事を掲載する雑誌『外交』の社長である竹内夏積(本名は克己だ)や、画家の幡恒春(はたこうしゅん)、今はなき橋戸頑鉄(はしどがんてつ)、水島爾保布(みずしまにおふ)、釈瓢斉(しゃくひょうさい)などであり、社会部長は長谷川如是閑(はせが在にょぜかん)先生であった。
また、通信部には支那通(中国通)の波多野乾一(はたのけんいち)がいた。
そうして風見さんは、社会部ではなく、外報部の副部長のような立場にいらっしゃったと記憶している。
さて、ある日のことだ。その風見さんが、頭に白い布をぐるぐる巻きにし、和服姿で、ヌッと編集室へ入ってきたことがあった。
「おーい、風見、いったいどうしたんだ?」
「喧嘩でもして、頭を割られたのか?」
などと、あちこちから編集室の悪童どもが声をかけた。
すると風見さんは、たとえ山の崩落が起きて自分を生き埋めにしようとしたって、俺はビクともしないぞ、と言わんばかりの――よく言えば大物らしくて豪胆、素直に言えば肝っ玉が据わっているのかボーッとした態度で、
「禿頭病(とくとうびょう)にかかっちゃったんだよ」
と言い、のんびりと椅子に腰を下ろしたのだ。
禿頭病といえば、それはそれはかなり厄介で煩わしい病気であり、とりわけ自分の見た目や世間体を気にするような神経質な性格の人にとっては、致命的なほど苦痛であるはずの病気だ。それなのに、かかった本人があまりにものほほんとしていたものだから、取り囲んだ編集室の悪童どもまで一緒になって、のほほんとしてしまった。
「禿頭病だって? へえ、そうかい」
「で、治る見込みはあるのかい?」
などと、自分の席からまるで対岸の火事でも眺めるような気楽な態度で声をかけた。
「まあ、時の問題だそうだ」
――これが、その時の風見さんの返事であった。
「時の問題なんだとさ。
つまり、この病気には二種類あるんだそうだ。
一つは神経性、もう一つは黴菌性(ばいきんせい)――ところで、僕の病気は神経性の禿頭病なのだそうだ。
だから、何も気にせずボーッとしていれば自然と治るらしいんだ」
はたして、それから六ヶ月ほど経ってみると、以前よりも一層濃く、フサフサとした厚い髪が生えてきたのだった。
さて、その髪の毛も、内閣書記官長だの、司法大臣だの、大政翼賛会の産婆役だのといった、厄介で忙しい役目を次々と任された現在では、いったいどうなっていることやら。
だいぶ白髪混じりになったという噂も耳にするが、もう三十年近くもお会いしていない僕には、その真偽のほどは確かめようがない。
二 小林商相の昔
商工大臣の小林一三(こばやしいちぞう)閣下と言えば、僕などは三歩さがっておじぎをしなければならないほどのお方だ。
だから、そんな偉い小林さんの現在のお話はお預けにしておいて、今からざっと三十年も昔、阪神急行電鉄(阪神電鉄)の社長でいらっしゃった頃の思い出を書くことにしよう。
その頃、僕は大阪朝日新聞の記者をしていて、前の章に書いた風見章さんなどと一緒に、上福島の下宿屋に転がり込んで暮らしていた。
その頃のある日、小林さんが経営していらっしゃった宝塚少女歌劇を見に行った。
なぜなら、当時の僕が新聞社で演芸と文芸を担当していたからだ。
案内役を務めてくれたのは、当時小林さんの秘書であり、現在の東宝の重役である吉岡重三郎さんだった。
のんびりした格好で、当時の人気スターである雲井浪子(くもいなみこ)の歌や踊りを眺めていると、背広姿の小柄な人物が吉岡さんに連れられて現れ、
「国枝先生ですか、よくいらっしゃいました」
と声をかけてくれた。
それが小林さんであった。
ここでちょっと注釈を加えておくが、いかに気が利いて如才(じょさい)のない小林さんといえども、小説家・国枝史郎という一人の人間に対して「先生」という敬語を使ってくれたのでは決してなく、彼が背負っていた「大阪朝日新聞記者」という肩書に対して使ってくれたのだということは、言うまでもない。
これが、僕と小林さんとの初めての出会いであった。
その後、僕は朝日新聞を辞めて松竹キネマの脚本部員となったのだが、映画や芝居の空気がどうにも自分に合わず、会社を辞めようと思い立った。そこで小林さんのもとへ赴き、
「何かいいお仕事はありませんかな」
と、ひどく漠然とした態度で相談を持ちかけたところ、小林さんもまた漠然とした態度で何やらお返事をくださった。
ところが、それから数日経ったある日、小林さんから手紙が届いた。
中を見ると、ぜひ会いたいから事務所まで来るようにとのことで、ご丁寧に阪神電車の切符まで同封されていた。
そこで僕はさっそく小林さんをお訪ねした。
「ねえ国枝君、松竹を辞めるなんて考えものだよ。松竹は今でもなかなかのものだが、将来はもっとすごい大企業になるんだから、わがままを起こさずにここで辛抱したらどうかね」
――これが小林さんの言葉であった。つまり、小林さんは大多忙を極める貴重な時間をわざわざ僕のために割いてくださり、親身になってお説教してくださったのである。
小林さんは、それからコンコンと、じゅんじゅんと僕を諭してくれた。
僕はただポカンと口を開けてその話を聞いていた。
そうして、小林さんの話が一区切りついた時、僕はこう言った。
「あの、私は昨日、松竹の方をすっかり辞めてきちゃったんですがねえ」
実際にその通りだったから、僕はそう答えるしかなかった。
さすがの小林さんも、これにはすっかり呆れ返ったらしかった。
それでも、怒りもしないで、
「そうかね、もう辞めてしまったのかね。
それじゃあ、今の君は浪人(無職)ということだな。
それなら、いっそ東京へ行った方がいいかもしれないね」大阪というまちは、仕事がない人にとって居心地のいいところじゃないんだよ――。それに比べて東京というのは、仕事のない人たちの吹きだまりみたいなもので、大臣をやめた元エライ人たちがゴロゴロしているからね」
と言われたのであった。
その小林さんも、とうとう大臣になられた。
いつかは大臣をやめた元エライ人になるのだろうけれど、東京にいらっしゃるのだから、元エライ人になったところで住み心地がいいのにちがいない。
三 白い糸
徳冨蘆花(ととみろか)に、『外交綺談(がいこうきだん)』という本がある。
たしか外国の短いお話を翻訳した短篇集だったような気がする。
その中の一つに、白い糸をテーマにしたお話があった。
なんでも、ある外交官が、夜のパーティーから帰る途中のコートの背中に、一本の白い糸がついているのを、あるご婦人が「あなた、糸がついておりますよ」と言って、取ってくれたという。
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