「柳沢侯は数寄のお方で、お眼にとまる者は必ずお部屋にお入れなされ、やがて将軍家の伽におすすめなさる、ということではございませんか」
「そうなればなお、強い大きなてづるが掴めるでしょう」
「貴女は狂っておいでなさる、われらにとって徳川はもと敵ではございませんか。仮に御再興の兵を挙げるとしても、めざす敵はやはり徳川でございましょう。いかに苦肉の策とは申しながら、当の敵に御自分から妹姫をおすすめなさる、さようなことで名分が立ちましょうか。七百年連綿たる、みどう家の誇りをどうなさるおつもりですか」
「恵林寺さまの御遺志は御再興の事ただ一つです」
登世は叫ぶように云った。
「これまで便々と時を消し、あたら有る機会をのがして来たのは、みな名分や誇りなどにとらわれていたからです。まず兵を挙げ、御再興の目的を遂げれば、名分や誇りなどはりっぱに立つでしょう。しかも、こんどはその最後の機会です」
権之丞はまもなく座を立った。
彼は登世の性質を知っている。
そしてどうやら、事はあまりに深く、しかも現実的に進みすぎているようだ。
――みどうのお家が危うい。
幕府政体はすでに磐石である。
甲府城にどれほどの軍資を貯え、どれほどの兵を集めたとしても、またよし三五の諸侯が助勢したとしても、徳川氏の倒壊などはまったく望み難い。
夢というにも足りない暴挙である。
――死を賭して諫めようか。
おそらく彼女は思いとどまるまい。
父のみどう清左衛門が来て説いても、比女の決心をうごかすことはできぬだろう。
……日にやけた小さな顔に、刻みつけたような深い皺があらわれ、僅かな時間でその眼も頬もぐっと落ちくぼんだようにみえた。
「和助、乙女さまは」
与えられた部屋へ戻ると、権之丞はさっき背をながしに出た若者を呼んだ。
「ひるから海へ、お遊びに出ておいでなされます」
「こちらでのごようすはどんなふうだ」
「山へ帰りたいと、口ぐせのように仰しゃってでございます」
権之丞は若者を見た。
「おまえも、山へ帰りたいと、申したな」
「――はい」
「和助、こちらへ寄れ」
こう云って、権之丞は坐りなおした。
花世さま
一
屋根をかけた一艘の小舟が、佃島の南の海面を、しきりに、右へ左へと、こぎまわっていた。日の高い頭上の空は、染めぬいたように濃い青であるが、平らに凪いだ海からたちのぼる熱気のために、遠い眺めは暑くるしく霞んでいた。
小舟の舳首には、麻の肩衣をつけた若者が立って、水面を覗きながら、絶えず片手を振っている。
短い半纒に、逞しい下半身をあらわにした船頭は、巧みに櫓を操りながら、その示すとおりに、すばやく舟をこぎまわすのであった。
「どうもおどろきますね」船頭は荒い息をつきながら、「お躯はもう、すっかりおとなになっていらっしゃるのに、気持はおくてなんですかね、このまっ昼間の、見とおしで、平気ですっ裸におなんなさるなんて、あっしゃあ胆をつぶしましたぜ」
「お育ちが違うから……」
若者は、云いまぎらすように、にが笑いをした。
「お大名の奥なんぞでは」と船頭は続けた。
「奥方や姫さま方も、風呂へはいれば躯じゅう人に洗わせるし、かわやなんぞでも、御自分じゃ始末をなさらねえってえますがね、つまり恥ずかしいってえことを、御存じがねえってえんだが、お嬢さんもそんなふうでいらっしゃるんですかね」
「まあそんなところだろうな」
右だ、と若者は手を振った。
そのとき舳先の右がわで、はげしく水がはね、とびあがるように、一人の少女が水面へ顔をだした。
それは登世という娘とよく似ていた。
登世よりも表情が明るく、眼つきがいたずらっぽく、唇のわきの黒子が、反対がわにあるだけで、殆んど登世の顔を鏡にうつしたほども、よく似ていた。
きめのこまかな、あくまで白い肌が、水に透けて、なまめかしく揺れる。
水面に出た小さなまるい肩から、しなやかにのびた頸すじが、水滴をはじいて、耀くばかりに美しい。
「乙女さま、もうお上りなさいまし」
若者がそう呼びかけると、少女は両手で水を叩き、ひゅう、と長く口笛のように息を吐いて、顔にかかる髪毛をかきあげながら、
「だめよ、まだ一尾も掴まないんだもの、くやしい」
怒ったように云った。
「おくにの川とは違います、海は広うございますから、とても魚を掴むなどということはできは致しません」
「舟がついて来るからいけないのよ、舟を停めてお置き、どうしたって一尾は掴まなくちゃ、どうしたってよ」
「乙女さま」
「舟を停めて」
少女は身をひるがえした。
若者は身をのりだして、「花世さま」と、叱るように叫んだが、ふと慌てて眼をそらした。
眩しいほどに白く、なめらかに豊満な、美しい双のまるみが、泡立つ水の中へ沈んでゆくのが見えた。
「静かにやって呉れ」若者は片手をあげた。
船頭は、若者の手の動くほうへ、こんどはゆっくりと櫓をつかいながら、「おそろしく息がお続きなさいますね」と感じいったふうに云った、「二百息、いや三百息はたっぷりだろうが、本当に魚をお掴みなさるんですか」
「まるで鵜のようだ」
「どうもその、どういうことなんだか」
片手で汗を拭いて、さもげせないとでもいったように、船頭は首を振った。
「こないだはお屋敷の、屋根へおあがんなすって、ましらの如くってんですかね、お庭の榎の枝から、ひらひらっと飛び移って、ひらひらっとあの高い二階の屋根へあがったと思うと、例のあの、ほっほう、てえ梟みてえな声をおだしんなって、それからまたひらひらっと屋根を走って、榎の枝へ飛び移って、見えなくなってしまったんだが、どうもその早いのと身の軽いのにゃあ仰天しましたぜ」
若者は手を左へ振った。
「上のお嬢さんはばかにしんとして、あっしらなんぞにゃあ、怖いくらいなんだが、こちらはよっぽどおてんばでいらっしゃるんですね、おくにでもこんなですか」
「こっちだ、もう少し左」
「ぜんたい、甘利ってえなあ、どのへんですかね、よっぽど遠いんですか」
「甘利だって」若者はふり返った、「そんなことを誰に聞いた」
「誰って、誰に聞いたってこともねえが、そんなふうに云ってるんじゃねえんですか」
「それは聞き違いだ」若者はまた水のほうへ向きなおった、「本当は駿河の奥に、富士谷というところがある、柳沢さまの、元の御領分だが、そこに雨降り山というのがあって、それが……」
こんな問答をしているうちに、いつか佃島から東へまわっていた。
そして、気がつくと、すぐ向うに、小舟が二艘停って、どちらにも笠を冠った男が三四人、竿を出して、なにか釣っていた。
「これはいけない」若者は舌打ちをした。
かれらにもし若い女主人のはだか姿をみつかったら、とんだ恥をかかなくてはならない。
若者はこう思って、注意を与えるために、水の中を覗きこんだ。
だがそれはすでにおそかった。
若者が覗きこんだとき、少女は舟を潜りぬけて、反対がわに浮きあがり、ひゅうっ、と息を吹きながら舟ばたへ手をかけた。
「くやしい、また逃がした」
「ああ、乙女さま、向うに」
若者が手を振り、出るなという身ぶりをした。船頭もすぐに舟の向きを変えたけれど、少女はまるで気づいていなかった。
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