「働かざる者食うべからず」という言葉は、他人をこき使って利益をむさぼる(搾取する)ような者たちに対して向けられる、正当な物質的権利と義務の言葉です。
しかし、日本の家庭において、昔の親子や兄弟が「お金」のために争うことが正しいとされたことがあったでしょうか? 父はあくまで父であり、兄はあくまで兄でした。
父や兄は、たとえ自分の体が痩せ細ろうとも、子供や弟妹のために全力を尽くしました。
このような美しい風習も、西洋の思想が入ってくるようになってから、次第にすたれて(頽れて)いってしまいました。
またある人たちは、時代の波に恵まれて美味しいものを食べ、余ったお金を蓄えることでしょう。
しかしその一方で、職を失い、日々の暮らしに涙を流す人たちも出てくるでしょう。
貧しい人と豊かな人が同じ屋根の下で暮らしているような光景は、決して本来の日本の風景ではありません。
共産主義というものは、資本主義が姿を変えて生まれ変わったものにすぎず、どちらも「物質がすべて」という唯物思想に立脚しているのだということを、私たちは決して忘れてはなりません。
彼らは、冷酷な階級のルールによって、無理やり平らな世の中(平等)を作ろうとします。
だからこそ、人間らしい温かい心(人間性)をあざ笑うのです。
物質的な豊かさ以外に理想を認めようとしません。
しかし、精神的な文化が「精神の偉大な力」を現実の中でしっかりと発揮し、人間の生活にあるさまざまな矛盾をきれいに取り除いた時、その時こそ初めて、物質主義に打ち勝つ(克服する)ことができるのです。
道徳を重んじる日本は、まさにその手本を世界に示すべき時を迎えています。
なぜなら、大戦が終わった後のヨーロッパは赤く染まり(共産主義化し)、支那(中国)にもこの波が確実に押し寄せるに違いないからです。
今日の物質主義の根っこが、明治時代以降の教育にあるのだと気づいたならば、皇道日本の教育を行っていくのは、もはや手遅れ(遅きに失する)ではないかとすら感じられます。
果たして、今の子供たちは、こうしたすばらしい日本精神によってしっかりと育てられているでしょうか? たとえ上からの命令や決まり(統制)がどれほど厳しくなったとしても、それがただの形だけの言葉(概念)にすぎないならば、子供たちの豊かな個性はすっかり殺されてしまうことでしょう。
個性というものは、いつの時代であっても、とても大切なものです。
ただ、その進むべき方向が、道を踏み外して(埒外に逸せず)正しい道から外れないようにすることが肝心なのです。
このごろ、毎晩のようにコオロギが鳴いています。耳を澄ませて聞いてみると、その一匹一匹の鳴き声には、何とも言えないそれぞれの個性があります。
しかし、「秋の訪れを讃える」という心だけはみんな同じだからこそ、声が美しく調和し、全体の音楽のリズムを壊すことがないのです。
これまで資本主義は、子供たちの個性をどんどん殺してきました。
親たちも、お金儲けにつながる学問でなければ、子供に学ばせようとはしませんでした。
たとえ子供が自然の営みに対して何か不思議だなと感じ、そちらの道に進みたいと志したとしても、それは決して許されませんでした。
もしも国家が「一つの大きな家族」であるならば、将来はこうした自由もきっと認められるようになるでしょう。
そして、純粋な科学や芸術も、ぐんと発達するに違いありません。
それは巡り巡って、必ず国家全体のため(益する)になるのです。
世の中にお金持ちは大勢いたとしても、「自分の利益や名誉になること」でなければ仕事を引き受けないというようでは、今、日本の子供たちに心から求められている「真に芸術的な雑誌」を作ろうと思っても、国家の力でも借りない限り、到底実現することは望めないのです。
六
他人を搾取することの上に成り立っている、きらびやかな資本主義の文化というものは、決して永遠に続くものではありません。
お互いに譲り合い、仲良く協力し合うことに基盤を置く「道徳的な文化」こそが、全人類のためであり、すべての民族が共に生き、共に栄えていく希望に満ちあふれたものなのです。
私たちが日本の子供たちのことを考えるとき、同時に満洲や支那の子供たちのことも心に思い浮かべないでしょうか?
朝鮮の古い童謡の中に、鳥の歌を歌った素敵なものがあるのですが、それが日本の童謡にとてもよく似ているのを発見して、なんだか微笑ましく思ったことがありました。
支那の詩といえば、李白(りはく)にしろ杜甫(とほ)にしろ、日本人なら誰もがよく知って親しんでいる通りです。
それは、自然に対する見方(自然観)や、人生に対する見方(人生観)が、お互いによく似ているからなのです。
これを見ていると、「東洋はもともと一つの国なのではないか」というような気持ちすら湧き上がってきます。
世間では「人間の人情というものに、西洋も東洋もない」と言われたりしますが、実際に西洋と東洋を比べてみると、違っているところの方が圧倒的に多いものです。
「血は水よりも濃い」と言います。
東洋の国々どうしが固い絆で結ばれ、同盟を組むことは、決して不自然なことなどではありません。
文学というものを通じて、趣味や感情が同じであるばかりでなく、日本精神と儒教の間にも、多くの共通点が見出されます。
昔から、孔子や孟子の教えは、日本の武士階級に深い感化を与えてきたため、今では日本精神の大切な一部を形作っています。
つまり、「仁・義・礼・智・信」という教えは、私たちみんなに共通する道徳の根っこ(根幹)なのです。
だからこそ、新しいアジアの秩序(新秩序)を作り上げることも、十分に可能なのだということです。思うに、さまざまに広がる東洋の思想というものは、どれも同じ感情と信仰の土台の上に育ってきたものです。
ですから、東アジアの子供たちの心をしっかりと結びつけるものは、こうした感情から生まれた「一つの美しい夢」であり、同時に「一つの輝かしい希望」だと言うことができるのです。
そして、彼らがそれらに対して抱く、思いやりや共感、そして深い理解こそが、心と心をしっかりとつなぐたった一つの絆なのです。
本当の美しさを持つ純粋な芸術にこそ、そのような大きな力が宿っています。
もっとも美しい芸術、それはまさに「童話」なのではないでしょうか? 人生におけるどんなに高い理想も、どんなに素晴らしい希望も、童話の世界であればすべて実現させることができるのです。
ただし、作者たち自身が時代の流れをしっかりと見つめ直し、新しい文化を自分たちの手で作り上げていくんだという熱い情熱に燃えていなければなりません。
そして、その物語や活動の中で日本らしさをしっかりと磨き上げ、いつの日かアジア(東亜)の兄弟たちのために力を尽くすんだという考え方を、子供たちの心に深くしっかりと染み込ませていかなければならないのです。
それなのに、学校で行われている作文(綴り方)の教育などでは、今でも自分のことばかりを考える(個人主義的な)小賢しい文章が、きれいに書けているというだけで褒められたりしています。
心や体が健全ではないような物の見方であっても、「現実的だ」などと言って平気で褒められたりするのです。
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