誰かと話がしたいときは――ここに来れば誰かしらいる。
それに、特に君のそばに行きたいと思えば、ここに来さえすればいい。
――君も、どうやらここよりほかに気に入った場所はないみたいだしね」
あや子「そんなことないわよ……」
亮太郎N「別に悪いことじゃないんだからいいさ。
だけど、僕はもうこの木の下はお断りだ。
今日を限りにして、二度とここへは来ないよ。
(少し間)
どうしてそんなところで突っ立っているんだよ……。
もっとこっちへ寄りなさいよ。
誰も見てやしないんだからさ。
ほら、ここが平らで座りやすいよ」
あや子「(言われるがままに、亮太郎のそばに腰を下ろす)」
亮太郎「そろそろ東京へ帰りたくなったんじゃないのか?
いや、それどころか、もうとっくにここが嫌になっていたかもしれないね。
今までよく我慢してくれたよ」
あや子「どうしてそんなこと言うの。
少しも嫌になんかなっていないわよ。
ただね……?」
亮太郎「ただ……?」
あや子「ただ、あなたがいつもあまりにも塞ぎ込んでばかりいるから……」
亮太郎「そうか、それじゃあもっと楽しくしようじゃないか。
君、今日は午前中、何をしていたんだい?」
あや子「今日はね、この間からたまっていた新聞をまとめて読んだの」
亮太郎「何か面白いことでもあったかい?」
あや子「あなた、もうご覧になったんじゃないの?」
亮太郎「ジョークのページだけさ。
あと、漫画だな。
『ダブとドフ』ね、時事の付録のやつ、あれは傑作だよなぁ」あや子「そう? あたし見ないわ」
亮太郎「話にならないな、あれを見ないなんて……」
あや子「どんなお話なの?」
亮太郎「どんなお話って……いろいろあるさ。
それから、ユーモアの読み物にもなかなかいいものがある。
近頃感心したのはこんな話だ――ある男が、女を自分の隣に座らせて自動車を走らせているんだ。
その男、片手でハンドルを握って、もう一方の手で女を抱き寄せている。
そこで、お巡りさんが、『こら、こら、両手でハンドルを持たなきゃいかん』と注意したんだ。
すると、『自動車がどっちへ行くかわかりませんから』と返したのさ」
あや子(ぽかんとしている)
亮太郎「わからないのかい?」
あや子(やっと理解して)ああ、そう……。
面白いわね。
亮太郎「面白くなさそうな面白がり方だな。
じゃあ、これはどうだ。
(少し間)おい、聞いてるのか?」
あや子「聞いてますわ。
(少し間)でも、あなた自身が、無理に面白がっていらっしゃるんじゃない? 今日は……。
お加減が悪いなら、もう家の中にお入りになったらいかが……? だんだん冷えてきましたわ。
また風邪でも引くと……」
亮太郎「もう少し、ね、いいだろう。
もう少ししゃべらせてくれ。
面白くなければ、黙ってほかのことを考えていてもいい。
しゃべりたいという本能は死も恐れないという話がある。
このまま黙って寝ろと言われれば、僕は、潔く死を選ぶね。
そこでだ、ええと、なんだっけな、君は、僕の実家を、もう少しどうにかした家だと思っていたんだろう。
こう聞くと、君は、なんと答えていいかわからないだろう。
じゃあ、言い直そう。
僕がどうして君をこの家に連れて来たかと言えばもちろん、こんなボロ家を見せたいからでもなければ、父親や母親に君を引き合わせて、大いに親孝行なところを見せつけようとしたわけでもない。
君はどう思っているか知らないが、それはここへ出発する前にも言った通り、親父もだんだん年を取るし、弟は家の財産を守るということには何の興味も希望も持っていないし、やっぱり僕が一度帰って、親父が死ぬまでそれなりに暮らしていくだけのことはしておかなければならんと気がついたからなんだ。
そこで、帰って見ると、もう手遅れだった。
少しばかりあった山も畑も、大方は人の手に渡ろうとしている。
君は、その時だよ、ある種の失望を感じやしなかったか?」
あや子「……」
亮太郎「この栗の木も、そのうちに、誰かがやって来て、切り倒していくかもしれない。
そういう日が来るような気がするんだ」
あや子「あなたが心配していらっしゃることは、あたしには、ちっともわかりませんわ。
あなたのおうちの財産がどうであれ、それがあなたにとって何ともないのであれば、あたしだって何ともありませんわ。
あなたは、そんなことを気に病んでいらっしゃるの?」
亮太郎「それならいいさ。
じゃあ、もう何も言うことはないよ。
(頭を抱えてかすかに身悶えする)僕は、やっぱり東京へ帰ろうと思う。
その方が本当だという気がするんだ。
つまらんと言えばつまらんが、あんな研究も、せっかく始めたんだから、続けてやりたい気もするしね。
そう言えば、この辺には、コウモリが多いんだよ。
ほら、昨日の夕方も台所にいたじゃないか。
今、巣を見つけているところなんだ」
あや子「じゃあ、毎日、森の中を歩いていらっしゃるのは、そのためなの……? お父さんが笑っていらっしゃったわ。
子供の頃はあんなんじゃなかったって……。
いやね、黙って……」
亮太郎(妻の意外にも快活な調子に引き込まれて)「言えばまた五月蠅いからさ。
子供の頃って、僕が子供の頃は、親父がうちにいたためしなんかないんだからね。
祖父が家にいて畑仕事をし、親父は材木を切り出しては、車に積んで町へ運んだものさ。
その頃が萩原家も全盛期だったらしい。
親父は、何か君に愚痴でもこぼしやしないかい?」
あや子「いいえ、別に……。
でも、お父さんは面白い方ね。
時々人を笑わせるようなことをおっしゃるのよ」
亮太郎「どんなこと……?」
あや子「おかしいからやめておくわ」
亮太郎「いいから言ってみたまえ」
あや子「あたしが帰ってきたので……やっぱりやめましょう、つまらないことだから……」
亮太郎「そんなこと言ってる暇に言ったらいいじゃないか。
君が帰ってきたので……?」
あや子「村中の男がおめかしをし出したって……」
亮太郎「馬鹿な……」
あや子「ほら御覧なさい」
長い沈黙。
亮太郎「そんなこと言うもんかい。
君がそう思うから言ったんだろう。
白状しなさい」
あや子「いいわ、そんなこと言うなら……」
亮太郎「怒らなくたっていいさ。
(少し間)さっきから太鼓の音がしているね。
お祭りの練習だな」
長い沈黙。
第四場
前の場と同じ。
朝――霧が立ち込めている。
急に騒々しい声が聞こえてくる。
その中で、亮太郎の怒気を含んだ大声が一段と高く耳につく。
最後に、「バカッ」と一声、あとは寂寂とした静けさが残るのみ。あや子が、亮太郎をしっかりと抱きかかえるようにして、裸足のまま、後ろを振り返りながらやって来る。
栗の木の根もとに亮太郎をそっと寝かせ、髪の毛を優しく撫で上げて、その顔をのぞき込む。
亮太郎は、目を固くつむって、苦しそうに息をしている。
――あや子の表情には、絶望の色がにじみ出ている。
あや子 あなた、しっかりしてください。
苦しくありませんか?
大丈夫ですか?
おでこを冷やしましょうか。
待っていてちょうだい……。
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