だけど、誰がそんな奇跡を信じるものか」
クーパーはしきりに目をパチパチさせていましたが、そのとき背後から彼の名を呼ぶ声がしました。
「事務長はいませんか。電話です。電話ですよ」
それは秘書のマルラの声でした。クーパーはその声のする方に、またゴソゴソと四つん這いになって近づいていきました。ところが、頭を痛いほどマルラの頭にぶつけてしまいました。マルラも同じように、床の上をカニのようにゴソゴソと這い回っていたのでした。
「事務長、機関部から電話です。一刻も早くあなたを電話口へ呼んでくれと言っています」
危険信号
電話機のところまでたどり着くのに、また、なかなか骨が折れました。這って歩くには、何かにぶつかるたびに「これはどこに置いてあった椅子かしら」などと考えなければ、自分が今部屋のどこにいるのか検討がつかなかったのです。そのうちに混乱してしまって、自分が部屋のどこにいるのか分からなくなってきます。
「おい、マルラ。電話機を探してくれよ」
クーパーも、とうとう悲鳴を上げました。
「はい、事務長。だが困りましたな。わたしはさっきから、急に目が見えなくなってしまったんです。さっき電話がかかってきたときは、ベルが鳴っていたものですから電話機のありかも知れたんですが、今はベルが鳴ってくれませんので、ハテ、どこにあることやら――」
「しようがないなあ。物が見えなくては」
と、クーパーは舌打ちしました。
「事務長。もうわたしには秘書の役は務まりません。目が見えなくなってしまったんですからね。海の中へ入って死んでしまった方がましです」
マルラは自分が怒られたのかと思って、ひどく悲観してしまいました。
「おいおい、あまり早まってはいけないぞ。目が見えなくなったというが、本当に目が見えなくなったのかなあ。そうじゃないよ。われわれはいま、濃い霧の中に入っているだけのことなんだよ」
「濃い霧の中へ入ったのですって? そうじゃありませんよ、事務長。目をやられてしまったんですよ。目が見えなくなっては、もう何の楽しみがありましょう」「わたしはやっぱり海へ入ります」
秘書は絶望のあまり、しきりに海中へと飛び込みたがりました。
「マルラ、気を強く持たなきゃいけない。第一、海へ入りたいと言っているが、その海がどこかへ消えてしまったらしいんだよ」
「ええっ、海がどうしたんですか?」
「海がなくなったらしいんだ。波の音も聞こえなければ、ブツブツという泡の音もしないのだ」
「海がどこかへ行ってしまうなんて、そ、そんな馬鹿なことが……」
そのときでした。
ボウボウと、本船の警笛が響きました。それはいつもの澄んだ音とは違い、なんだか変な音色でした。しかもそれは、危険信号を伝えていたのです。
「あっ、危険信号だ!」
事務長は、サッと青ざめました。
「これはぐずぐずしていられない。おいマルラ、どうしても電話機を探さなきゃならんのだ。こっちへ来い。一緒に手をつないで歩き回った方が、早く室内の様子がわかるだろう」
「そりゃいい考えですね」
マルラは喜びの声をあげました。
「事務長、わたしはここにいるんですよ。早くこっちへ手を伸ばしてください」
やがてクーパー事務長は、マルラの冷え切ってブルブルと震えている手を探し当てました。マルラは喜びの声をあげて、クーパーの手に接吻しました。
「さあ、しっかり立って歩くんだ。手をうんと広げるんだぞ」
広い事務長の室内で、ふたりは鬼ごっこを始めました。でも、その鬼ごっこはついに成功し、床の上に転がり落ちていた電話機を拾い上げることができたのは、それからものの五分とかからない後のことでした。
事務長はさっそく受話機を耳にあてて叫びました。
「クーパーだ。そっちは機関部かネ?」
「おお、クーパーの声だ!」
と、向こうでは大変待ちかねたような歓声をあげました。機関長シリンの声でした。
「おお、クーパー。大変なことになった。本船の機関は、いつ爆発するかもしれないんだ」
「ええっ!」
船底からの嘆き
「本船の機関が爆発するかもしれないとは、どういうわけだッ!」
事務長は棒立ちになって叫びました。
「それは、こういうわけなんだ」
と、シリンが半泣きの声で説明するところによると、機関部ではどういうわけか皆がトロトロと居眠りをしてしまい、後になって目を覚ましてみると、誰もかれもことごとく目が見えなくなっているのがわかったのだといいます。そんなわけだから、いま機関部員は、ただ日頃の熟練によって、目は見えないが手探りでこの精巧なクイーン・メリー号の機関をかろうじて操っている。したがってメーターもゲージも読めないので、いつまで安全に機関を運転し続けられるかわからない。きっと操縦にどこか大きな無理が生じて、恐ろしい機関の爆発が起こるかもしれないというのです。
「今の今まで、わがメリー号は目が見えない者ばかりの手で運転されていたのか。そいつは全く呆れた話だ」
「ねえ事務長、どうして皆がそろいもそろって目が見えなくなったんだろうね」
「どうもよくわからない。実はこっちも皆、目が見えないんだ。わたしやマルラはもちろん、船客たちも目が見えないと言って騒いでいる。しかし本当に目が見えなくなったのか、それともひどい濃霧に包まれたのか、それはどっちかわからない」
「濃霧じゃないと思うね」
と、機関長シリンは反対しました。
「でも、少しあかりは見えるような気がするんだよ。物の形はいっこうに見えないがネ。なんだかこう、豆スープの中に入ったように、真っ黄色な明るさを感じるんだが……」
「こっちは真っ暗さ」
とシリンは吐き出すように言いましたが、急に声を震わせて続けました。
「事務長、とにかくこれは大異変だよ。ぼくたちはもう運転の自信を失ってしまったんだ。もう総辞職だ。しかもイギリスに着かないうちに、魚の腹の中に入ってしまうだろう。ああ……」
事務長も、それを慰める術を知りませんでした。でも今は狼狽(ろうばい)しているときではありません。異変があるなら、極力しっかりと気を落ち着けて、そこを切り抜ける工夫をしなければならないのです。そう思った事務長は、声を励まして機関長シリンを叱りつけました。
「いや、叱られても仕方がない。しかし、ぼくはもう力がないんだ」
「力がないなんてことはないよ。効かなくなったのは、たかが目だけのことじゃないか。ほかにまだ手もあり足もあり、脳もあれば耳もあり、鼻もある。……そうだ、きみのところは何か臭くはないか」
と、事務長はふと気がついて、例のいやな臭気について尋ねてみました。「くさい? いや、別になんにもくさくはないが、それがどうしたのかね」
「なに、そっちはくさくないのか。それはふしぎだ。船室や甲板一帯には異様な臭気がただよっていて、じつに閉口しているのだ。機関部がくさくないとは全くふしぎだ。するとこれは、やっぱり海霧につつまれているとしか思えない。だが、そのガスも尋常のガスではない――」
夢の国のとりこ
事務長のクーパーは機関長を励ましてから、電話を、本船の上甲板のもう一段上にある操縦室につなぎかえた。一等運転士のパイクソンが応答した。
「おう、パイクソン。
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