初級翻訳・灰色の巨人 第22話

江戸川 乱歩

そして、そのブリキ缶を自動車の車体の下へ、針金でしっかりとくくりつけておきます。
すると、コールタールが缶の底の針の穴から、細い糸のようにチョロチョロと流れ出し、自動車が進むにつれて、地面に目にも見えないコールタールの細い線が、どこまでもずっと続いていくというわけです。
その缶には、四、五十分はもちこたえるだけのコールタールが入っていました。
探偵犬シャーロックのするどい鼻は、その糸のように細いコールタールのにおいをしっかりとかぎわけて、灰色の巨人の自動車のあとを追っているのです。

では、そのブリキ缶を、だれが、いつのまに、悪人の自動車にくくりつけたのでしょうか?
それはさっきの、小さな影ぼうしでした。
つまり、小林少年その人だったのです。
そして、見張りの男の注意をそらすために、酔っぱらいのまねをして大げさに喧嘩をしかけたのは、ほかでもない明智探偵本人だったのでした。

**ふしぎな家**

園井さんを乗せた悪人の自動車は、きれいに舗装されたまっすぐな道路を五十分ほども走って、やっと止まりました。
ずいぶん遠くへやってきたようです。

「さあ、車からおりるんだ。
この先は車が入っていけないから、ここからは歩くんだよ」
園井さんのとなりに座っていた悪人の部下がそう言って、園井さんの手をつかみ、自動車からおろしました。
園井さんは宝冠の入った箱のつつみをかかえ、引かれるままについていくと、足元に草がたくさん生えている上り道を歩いていることがわかりました。
草だけでなく、いろんな木も生えているらしく、ズボンのすそが木の枝にビリッとひっかかります。
そしてまわりは、深い森の中にでも迷い込んだかのようにひえびえとしていて、植物のにおいが強くただよっていました。
東京から一時間くらいのところには高い山はありませんが、小さな丘いくつつかはありますから、そういった丘を今登っているのだろうと園井さんは考えました。
ちゃんとした道路なんてない森の中らしく、草や木の枝を手でかきわけながら進むのですから、目かくしをされた園井さんは歩くのがひと苦労でした。悪人の部下はそんなことお構いなしに、冷たくぐんぐんと手を引っ張るので、園井さんは何度もつまずき、転びそうになってしまいました。
十分ほどもそういう山道のようなところを歩くと、今度は、狭いほら穴の中へと引っ張り込まれました。
「ここから地下にもぐるんだよ。
石の段がついているが、狭いから気をつけな。」
賊の部下はそう言って、園井さんを助けながら、ゆっくりと降りていきました。
穴の中を三メートルほど下りると、今度はトンネルのような横穴になりました。
狭い穴なので、立って歩くことはできません。
体をかがめて、はいずるようにして進まなければならないのです。
園井さんは、だんだん怖くなってきました。
いったいこのほら穴は、どこへ続いているのでしょう。
もうこのまま、おうちに帰れなくなってしまうのではないでしょうか。
「正一は、地下室に閉じ込められているのですか?」
とたずねますと、賊の部下はぶあいそに答えました。
「そうじゃないよ。
この道はまた上りになって、地面の上に出るのさ。
あんたのお子さんは、そこの立派なコンクリートの建物の中で、大事にされているよ。」
すると、もうそこが上りの階段でした。
狭い石の段を、また三メートルほどはい上がり、広い場所に出ました。
そして、二十歩ほども歩くと、いすのようなものに腰かけさせられ、目かくしをはずしてくれました。
目を開くと、すぐ前に立派なテーブルがあり、その上に美しい彫り物のある燭台(しょくだい)が置かれ、五本のロウソクが明るく燃えていました。
テーブルの向こう側には、まっ白なものと、まっかなものがありました。
なんだかびっくりしてしまうようなものでした。
よく見ると、それはひとりの老人でした。
まっ白でふさふさとした髪の毛、胸まで垂れたまっ白なあごヒゲ、もう七十歳ぐらいの老人です。
それがピカピカ光る、まっかなマントのようなものを着て、大僧正(だいそうじょう)でも座るような、立派ないすに腰かけているのです。
赤いマントのえりのあたりに金糸の模様があり、そこに宝石がたくさんついています。
これも大僧正の着るガウンとそっくりの、きらびやかなものでした。
園井さんは、びっくりして頭が真っ白になってしまいました。
地下道を通って、まるでお話のべつの世界へ来てしまったような感じです。
まるで、童話の国の王さまの前にでも出たような気がするのです。
それから、部屋の中を見まわしますと、部屋そのものがまたじつに変わった形をしていました。
百畳もあるような、おそろしく広い部屋です。
それが四角ではなく、いびつな楕円形(だえんけい)の部屋で、まわりの壁はコンクリートなのですが、それがまたまっすぐではなくて、へんに曲がっているのです。
あるところではぐっとへこんでいるかと思うと、あるところではみょうに飛び出しているという、このごろ流行っている、新しい彫刻のような感じなのです。
それに、窓というものがひとつもありません。
天井は板張りになっていて、その上が二階らしいのですが、二階への階段は曲がったコンクリートの壁に沿って、鉄のはしごのようなものが斜めにかかっています。
まるで、コンクリートの壁をヘビが這(は)っているような感じです。
そのいびつな広い部屋のまわりには、宝石店のショーウィンドーのようなガラス棚が、ずらっと並んでいます。
遠くてよくは見えませんが、そのガラス棚の中には、赤や青や紫のビロードのケースに入った、金銀の美術品がいっぱい飾ってあります。
それにはみな宝石がちりばめられているらしく、キラキラと美しく光っているのです。
宝石の首かざりや腕わなども並べてあります。
じつにふしぎな家です。
しかし、怪盗「灰色の巨人」のアジトには、いかにもふさわしい場所です。
怪盗は自分の美術館に飾るために、「にじの宝冠」がほしいのだと言っていましたが、たしかにここは立派な美術館でした。
「その箱が、にじの宝冠だな。お見せなさい。」
白ヒゲの老人が、しわがれた重々しい声で言いました。
園井さんは、うっかり箱を渡して奪い取られてしまっては大変だと思いましたので、
「これを見せる前に、正一に会わせてください。
正一と引きかえという約束ではありませんか。」
こちらも強く言い張りました。
すると、老人はにやりと笑って、
「よろしい、わたしはけっして約束は破らんよ。
だれか、正一君を呼んできなさい。」
と、うしろの方に下がっていた部下に言いつけました。
すると、部下はうやうやしく頭を下げて、鉄の階段を二階へと上っていきました。それでは、正一は二階に閉じ込められているのだろうかと、園井さんはじっとその方を見つめていました。するとやがて、鉄の階段の上から、ひょいと少年の顔がのぞきました。
正一くんでした!
園井さんは、思わずいすから立ちあがりました。
正一くんも、お父さんの姿を見て「あっ」と小さな叫び声をあげ、階段をかけおりてきました。
そして、お父さんのそばへいこうとしますが、横から賊の部下が飛び出してきて、正一くんをグッと抱きとめました。

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