神州天馬侠

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吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第1話

序 私はもともと、子ども向けのお話を書くのが大好きだ。大人の世界にあるような、めんどくさいルールや考え方にとらわれなくてすむからだ。子ども向けのお話を書いている間は、自分自身もすっかり子どものころに戻って、少年の気持ちそのものになりきってし...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第2話

しかし、長老の快川国師は、故信玄の恩にかんじて、断乎として、織田の要求をつっぱねたうえに、ひそかに三人を逃がしてしまった。織田の間者は、夜となく昼となく、恵林寺の内外をうかがっていた。ところが、はからずも、勝頼の末子伊那丸が、まだ快川のふと...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第3話

忍剣は鉄杖を縦横無尽に振り回して、やっとの思いで黒ふんどしの黒具足組を追い散らしましたが、ふと気がつくと、伊那丸を隠してきた場所からだいぶ離れてしまっていました。急いで元の場所へと駆け戻ってみると、なんと、呼子笛を吹いていた部将が抜き身の刀...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第4話

さっと湖の中心には水けむりが上がりました。その一瞬のうちに、舟も、忍剣も、宝物の入った石櫃も、たちまち湖の波の中にその姿を深く沈めてしまったのです。「ややっ!」驚きのあまり我を忘れて、伊那丸が湖の岸辺まで駆け出したのは、まさにその時でした。...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第5話

お前たちは名もない雑魚(ざこ)のくせに、呼び捨てにしたり縄目にかけたりするなんて、なんと情けない、けっして無礼なふるまいをしてはなりませんよ」「へえ……」と、男たちはその凛とした声に縮み上がりました。「わたしはこの辺りの道によく慣れているか...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第6話

そのせいで留守になった「二の洞門」の入り口から、脱兎(だっと)のごとく飛び出した影があった!ひとりは黒装束の覆面姿、そしてその後にぴったりと従っていたのは、伊那丸にほかならなかった。「何者だっ!」「一の洞門」では、早くもその足音を察知して、...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第7話

それとも、あまりにも伊那丸さまの姿を血眼になって探しているせいで、気のせいなのだろうか……」忍剣がひとりでぶつぶつとつぶやいていると、その鼻先へスーッと薄紫色の煙が流れてきました。「おや……」とヒョイと振り返ってみると、すぐ自分の後ろに、真...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第8話

どれ、俺はこれから夜明けまでに、お行き先を見つけ出して、お望みの場所までお供をするとしよう」「この痴れものが!」忍剣は心の底から腹が立って、ふたたび鉄杖(てつじょう)をぎゅっと握りしめたとき、はるか裾野の向こうに、ただならぬ光を見つけました...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第9話

もしご存じなら、どうか教えてほしい」「伊那丸さまは、お坊さまと一緒に斬り込んできたあの六部の方が、ものすごい早業でどこかへ連れ去ってしまいました。あの六部が善人なのか悪人なのか、わたくしにも分かりません。それをあなたにお知らせしたくて、夜が...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第10話

「気は狂っちゃいない! 町人の中にも男はいる、天に代わって、貴様らをこらしめてやるんだ!」「生意気な口をきく下郎め! お前らがこのご城下で平和に暮らせているのは、すべて我々が敵国と日々戦っている賜物だということが分からんのか!」罰当たりめ」...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第11話

「おお……」と家康はうなずいて、そしてやさしそうに、「父の領地は焦土となり、身は天涯の孤児となった伊那丸、さだめし口惜しかろう、もっともである。いずれ、家康もとくと考えおくであろうから、しばらくは、まず落ちついて、体をやすめているがよかろう...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第12話

そして、杖のあやしい点には気づかずに、そこそこにそこから下がっていった。「若君、けっして手をおふれなさるな、この様子では、これもあやしい」 と、膳の吸い物椀をとって、中の汁を部屋の白壁にぱっとかけてみると、墨のようにまっ黒に変化して染まった...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第13話

さ、早く」とせき立てたかれは、むりにかれの手をとって、築山から、城の土塀によじのぼり、狭間(さま)や、わずかな足がかりを力に、二丈あまりの石垣を、すべり落ちた。途中に犬走りという中段がある。ふたりはそこまでおりて、ぴったりと石垣に腹をつけな...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第14話

月はないが、空いちめんにみがきだされたようなかがやかしい星の光と、ゆるやかに波を縒(よ)る水明かりで、湖は夜明けのようにほの明るかった。 すると、ギイ、ギイ……と、どこからかこの静寂をやぶる櫓(ろ)の音がしてきた。「お、ありゃなんの船だろう...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第15話

ああ龍虎たおれるものはいずれであろうか。三 船べりに頬杖ついて、龍太郎を待っていた伊那丸は、宵からのつかれにさそわれて、いつか、銀河の空の下でうっとりと眠りの国へさまよっていた。――松かぜの奏でや、舷をうつ波の鼓を、子守唄のように聞いて。―...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第16話

天文十五年のころ、武田信玄の軍勢が、上杉憲政を攻めて上野乱入にかかったとき、碓氷峠の陣中でとらえたのがこの鷲であった。碓氷の合戦は甲軍の大勝となって、敵将の憲政の首まであげたので、以来、信玄はその鷲を館にもちかえり、愛育していた。信玄の死ん...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第17話

おのれ、どうしてくれる、覚えていろ!」 と地団駄を踏んでにらみつけたが、目の前には海が広がっている——それももう霧のようにぼんやりとして、遠州灘の波の彼方へと消えていくものを、いかに優れた龍太郎であっても、空を飛んで追いかける秘術などはない...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第18話

今為朝が、五重塔の上に現れた老人の魔物を射落としに行ったぜ!」 坂本の町の葭簀茶屋(よしずぢゃや)でも、そんなうわさがパッと一気に広がった。 床几(しょうぎ)に腰かけてお茶をすすっていた木隠龍太郎(こがくれりゅうたろう)は、それを耳にすると...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第19話

ところで、果心居士がなぜ武田伊那丸を龍太郎に探させようとしたのか、その理由はあとで説明するとして、まずは、果てしない海へと連れ去られてしまった大切なお方を、どうやって探し出せばよいかという相談が始まりました。「竹童、竹童や――」居士があの少...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第20話

「肥前の国から来た侍、浪島五兵衛という者でございます。二、三人の家来も連れており、いかにも身分の高そうな男でございます」「ふむ……。それで、その者が何の用があって余に会いたいと言っているのか」「その浪島と名のる侍が、あるときにルソンから海の...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第21話

名も知れぬ荒くれどもに辱められるくらいなら、いっそこの海の底に……」夜は冷たい磯の岩かげに組んだ小屋で眠る。だが、そのあいだでさえも、鬼神(羅刹)のような手下たちが交代で見張りをしているのだ。「そうだ、あの親船が戻ってきたら、もう最期の運命...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第22話

島から伊那丸が逃げ出したにちげえねえ、てめえの腕でぶち落としてみせろ!」「えっ、伊那丸とは、いったいどういうことで……」「そんなことをグズグズ話してる暇はねえ! おお、またこっちへ近づいてきやがった、早く撃てっ!」「がってんさ!」小幡民部の...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第23話

立て! こっちの隅へ寄っていけ!」ズルズルと引きずってきて、伊那丸を拝殿の柱へ縄尻にくくりつけた。龍巻はそれをきっかけにして、「じゃあ殿さま、伊那丸はたしかに渡しましたから、約束の金をこっちへ出してもらいましょうか」「む、いかにも褒美をつか...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第24話

すぐにしっかりと調べさせます!」「仏像を作っただけで、一番大切な魂を入れないような中途半端なことは、この家康が大嫌いじゃ。伊那丸の首と、御旗楯無の宝物を両方そろえて持ってきてこそ、はじめて『見事な働きをした』と言えるのだ」「どうか、ここ二月...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第25話

ニッコと笑って丘の上に立った咲耶子が、サッと一閃、笛を振り上げれば敵がかかり、二閃、サッと横に振れば退き、三閃すればたちまち姿を隠す――それは神変ふしぎな「胡蝶の陣」でした。天翔る鞍馬の使者一今日も棒切れを手に持って、友だちの小猿を二、三十...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第26話

よいか?」「これに乗るんですか、お師匠さま! なんだかあぶなくないですか?」「たわけ者めが!」 喝! とものすごい声で叱りつけた果心居士は、竹童が「アッ」と言うまにその襟首をグッとつかみ、「エーッ!」という気合とともに、片手で力いっぱいほう...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第27話

「加賀見忍剣(かがみにんけん)どのへ知らせんこの状を手にされし日ただちに錫杖(しゃくじょう)を富士の西裾野へむけよたずねたもう御方あらん同志の人々にも会い給わんかしん居士」四竹童はとても困ってしまいました。心の底からどうしようと途方に暮れま...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第28話

そこへ、一陣の心地よい風が吹きました! 彼を狂喜させた便りは、まさに天の果てから届いたのです。クロの足に結びつけられた伊那丸の血文字、そして竹童が持ち帰ってきた果心居士の手紙。彼はあふれ出る涙を拭いながら、その二つの手紙を何度も何度も繰り返...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第29話

それを見た怒りに燃えた入道は、「ええ、ふがいない部下どもめ! こうなったからには、この梅雪が自ら蹴散らしてくれよう!」両の手綱を左手にまとめ、右手に陣刀をふりかざすと、あわや乱戦の中へ馬首をむけて駆け入ろうとしました。とその時、「しばらく、...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第30話

あるのはただ、一面の秋草の波に、秋風がザーッと吹き抜けていく音ばかりでした。まるでキツネにでもばかされたような、ぽかんとした様子を丘の上から眺めていた咲耶子は、帯のあいだに笛をはさみながら、ニッコリと微笑みを浮かべ、丘のうしろへと飛び降りよ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第31話

おお、殿さま!ただいまの言葉をお聞きになられましたか」ちょうどそこへ、遅れて到着した梅雪の姿を見て、民部がそう言いながら馬の上を見上げると、梅雪はニンマリと笑ってうなずきました。「聞いたぞ。あいつの言うことが本当ならば、すぐに湖から宝を引き...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第32話

「曲者」愕然と、おどりあがった四天王たち。同時に、その余の群猛も渦をまいて、「うぬッ、気が狂ったかッ」「裏切者ッ――退くな」 とばかり、一どに総立ちになるやいなや、民部の上へ、どッとなだれを打ってきた剣の怒濤。湖南の三騎士一 梅雪入道は、み...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第33話

まさしくここへさしてくる者は三騎の勇士だ。そのはやきこと疾風、その軽きことかける天馬かとあやしまれる。三 わーッ、わーッと湖畔にあがったどよみごえ。さては伊那丸がとらえられたか、咲耶子が斬られたか、あるいは、小幡民部がたおれたのであろうか。...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第34話

「老いぼれ」 すかさずその襟がみをムズとつかんだ武芸者は、その時ガサガサと丘の下からかけあがってくる木隠龍太郎の姿をみとめた。「あいや、それへおいであるのは、武田伊那丸君のお身内でござらぬか」「オオ!」 びっくりして、高き岩頭をふりあおいだ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第35話

「人非人(にんぴにん)め、斬ってしまえッ!」伊那丸の命令が下ると同時に、「はッ!」とその声に応えて飛び出したのは、巽小文治(たつみこぶんじ)の赤い柄の槍でした。梅雪の体がまだ地面につかないうちにサッと突き上げ、ブーンと一振りして地面にたたき...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第36話

これからひとつ、裾野まで飛んでいって、勇ましいところを空から見物してやろうっと!」日ごろから果心居士によくお叱りばかり受けているというのに、竹童はもう鞍馬山へ帰ることもすっかり忘れ、こんな大それた野望を思いついてしまったのです。思い立ったら...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第37話

そんなことはどうでもよい!おまえには、また別の大事な言い付けがあるのじゃ」ほかならぬ、これから富士の人穴へ行って、そこに住んでいる和田呂宋兵衛という盗賊のかしらに会ってくるのじゃ。しかし、普通の方法ではすぐに怪しまれてしまうから、あくまでお...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第38話

「むうッ、ではなんだって? あの武田伊那丸のやつらが、穴山梅雪をやっつけて、おまけに湖の底から宝物の石櫃(いしびつ)まで取り出したというのか!あの中に入っていたはずの『御旗楯無(みはたたてなし)』の宝物は、ずっと前にこっちでそっくり入れかえ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第39話

周りに並んでいるのは鬼のように荒々しい武骨者ばかりで、ここはまるで大きなお寺の本堂のような薄暗い大広間です。ふつうの子どもなら、こんな場所では生きた心地もしないはずですが、竹童はケロッとした顔で言いました。「うわあ、呂宋兵衛って外国の血が混...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第40話

「湖水の底に沈めてあった石の箱を引き上げて、中にあった『御旗(みはた)』と『楯無(たてなし)』の宝物をすりかえたのは、たしかにあなたですね――これはお師匠さまりの千里眼の術ですでにわかっています。ですが、その宝物をあなたは一体だれに渡したの...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第41話

だが、おまえはここに、何用があってやってきたのか」「はい」竹童はかしこまって、「お師匠さまのお言付けでござります」「なに、果心先生からここへ使いに?」「さようでござります」「みなさまは、きょう穴山梅雪をお討ちになって、さだめしホッとなされた...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第42話

竹童は勇んで、「それじゃあ夜中になったら、またすごい戦いが始まるな。僕も今からしっかり英気を養っておかなくちゃ……」 と言うと、飼っている鷹のクロを抱き、お堂の隅でゴロリと横になって寝てしまった。ところが、寝入るか寝入らないかのうちに、「お...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第43話

伊那丸は太刀を振りかぶり、咲耶子は薙刀の柄を握りしめて、「八幡(はちまん)!」と叫びながら、十字架の根元を狙って斬りつけました。その時――ほぼ同時でした。伊那丸の軍師である小幡民部が、無二無三に馬をそこへ飛ばしてきながら、「やあ、待ちたまえ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第44話

目ばたきする間に二、三町も飛んだ呂宋兵衛のあとには、うすい虹か、淡い霧のようなものが一筋、尾をひくように残っていました。四いつまで見送って歯がみしたところでどうにもならないと、忍剣は一同を励ましました。そして、そこに倒れている伊那丸と咲耶子...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第45話

なかなか七十人や八十人の小勢で押し寄せたところで、たやすく険しい廓(くるわ)は落ちまいと思う」「わたくしもあのなかを見てきましたが、どうしてどうして、恐ろしいほど厳重な山荘でございました」「それゆえ、力で押さず、智で落とす。しかし、智に頼っ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第46話

「一大事、一大事! まんまと敵の計略にはまり、頭領の生死もわからぬほどの大崩れだ!」 続いて逃げてきた手下たちも口々に叫びます。「伊那丸自身が先陣を切り、小幡民部が軍師となって、もうすぐここへ攻め寄せてくる気配だ!」 さらに間を置かず、次々...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第47話

戦国の世ほど、移り変わりが激しいものはない。ついこの夏までは、右大臣織田信長の居城として、この山の緑の中に素晴らしい金殿玉楼が見えたものさ。金の鯱(しゃちほこ)や七重の天守が、日本中を支配しているかのようにそびえていた安土城だ。それがたった...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第48話

「ではまた、後刻あらためてお目にかかりましょう」端厳、麒麟のごとき左少将・秀吉。風格、鳳凰のような右少将・家康。どちらも胸に大きな野心を抱いて、威風あたりを払い、安土城本丸の大広間を右と左とに分かれていきました。二「野武士のうちにも人物がい...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第49話

しかし、またすぐ食べ始めます。木を降りるのも惜しいようです。と、一口かじりかけたところで、また「チクリ」。「ちぇっ」と舌打ちをして襟首をなでると、今度はなでた手が「チクリ」と刺されました。「なんだろう、さっきから――」そっと探ってみると、な...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第50話

するとすぐに、鋭い太刀風が竹童の耳たぶから鼻筋のあたりをブーンとかすめました。哀れ竹童、組み討ちならまだしも、駆け比べならまだしも――真剣の白刃を交えるには、悲しいかな、まだそれだけの体格もできておらず、剣の技もありません。第一、腰に差して...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第51話

竹童は自分より三歳か四歳上らしい蛾次郎を見上げて、へんなやつだと思いました。「そのことじゃないよ。さっきおいらが悪いやつに危うく殺されそうになったところを、石を投げて助けてくれたから、その礼を言ったのさ」「あんなことはお茶の子さいさいだ。こ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第52話

「逃がしはしないよ!」鋭く目を凝らしてあたりを見回した蚕婆は、ふと、七、八間(約13〜15メートル)先の暗闇の中で、何やらモゾモゾと動いている人影を見つけて、じっと狙いを定めました。――それは紛れもなく、天井裏で膝を突かれてケガをした曲者(...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第53話

「それに、後から聞いた話では、てめえは夕方、物置小屋から二、三十本もの松明(たいまつ)を盗み出したそうだな。一体そんなものをどこへ持ち出して、何のために使ったんだ。嘘をつくとこれだぞ!」いきなり弓の折れ(弓の端材)を振り上げ、羽目板をピシリ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第54話

徳川家へまいれば伊賀衆の組頭として、いくらでも取り立ててやるから、一緒にくるがいい」「あ、ありがとう!」「おれもこんなやかましい親方にくっついているのは、いやでいやでたまらないんだ」「む、卜斎に気取られぬうち、そっと馬小屋から足のはやいのを...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第55話

いつもの図太さはどこへやら、顔色は真っ青です。「おお、裾野の見張り役の婆さんではないか。大変とはなんだ、どうした?」一斉に色めき立つ人々を見回しながら、蚕婆は歯をむき出しにして怒鳴りました。「なんだもかんだもあるものか! 早く、早く門を閉め...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第56話

自分たちがいない間に、あるいは軍律を破って、夜半の眠りをむさぼっていたのではないかとさえ疑いました。「なぜ、かがり火を焚いておらぬ。この暗さで、いざという時にどうするつもりだ。不埒者め、早く灯をつけい!」「はい、ただいま、すぐに明るくいたし...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第57話

死地におちた雨ヶ岳一富士川の名物である筏舟(いかだぶね)に竿を差し、鰍沢(かじかざわ)から下る筏乗りのふりをして、矢のような速さで東海方面へ逃げた、怪しい二人の男がいました。海口へ着くやいなや、しぶきに濡れた蓑笠(みのかさ)とともに筏を捨て...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第58話

晩秋の草むらを庭として遊ぶ、鶉(うずら)や百舌(もず)や野うさぎの世界は、うらやましいほどに平和そのものです。ちょうどそれと同じように、のんきで陽気な顔をして、またぞろ裾野へ舞い戻ってきた泣き虫の蛾次郎は、まるで自分が偉い身分にでもなったか...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第59話

忍剣と小文治がなおも追いかけようとするのを、伊那丸はきっぱりと制止しました。逃げる八風斎の姿を一瞥もせず、伊那丸は言いました。「小さな敵に気を取られるな。心もとない大軍の出動とやら、誰ぞ、早急に物見(偵察)をしてまいれ!」「はっ、心得ました...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第60話

二 そこは密林の奥深くでしたが、地盤の岩石が露出しているため、一町四方ほど樹木がなく、開けた平地には硯(すずり)のような黒い石が転がり、裂け目や窪みからは、いくつもの筋に分かれた水がサラサラと流れていました。ギャア、ギャア、ギャア。 ――不...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第61話

たちまち、進軍の合図が響きます。民部の手から振られた采配が空を切り、風を切る音とともに、陣は五つの段に分かれました。雁が列をなして飛ぶような形となり、闇に包まれた野原から、人穴城の正面へと、脇目もふらずに攻めかかりました。「わーッ! わーッ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第62話

「さては、またしても民部の策にのせられたか!」と、又八は顔色を失い、慌てて道を引き返そうとしましたが、なんとそこにはすでに逃げ道を断つように、別の軍勢が立ちはだかっていました。その中からひときわ高い声が響きます。「武田伊那丸、これにあり! ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第63話

「蛾次郎、蛾次郎、姿を隠せ! 早く隠れろ!」「え、え、え、なんです、親方!」「バカ! ぐずぐずするな、見つかっては一大事だ! 早くそこらへ姿を消せ!」「ど、どこへ消えるんです?」 と、不意の出来事に蛾次郎は度を失い、まだうろうろしているので...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第64話

ちょっとくらい、オレにだって貸してくれてもいいだろう! こっちは命がけで合戦の様子を探ってきてやったんだぜ。そんな根性の悪いことをするなら、オレだって、もう何も話してやらねえからな!」「いいとも、もうお前になんか教えてもらうことはないよ。お...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第65話

果心居士(かしんこじ)から教わった浮身の法(うきみのほう)で、ピタリとクロの翼の根元へへばりつき、両端に火をつけた松明を次々と投げ落としていたのです。火先は鮮やかな縞模様を描いて人穴城へと降り注ぎ、三千の野武士の巣窟を、瞬く間に大混乱の渦に...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第66話

「では、もしやきさまは、伊那丸(いなまる)のために働いている者ではないのか?」と、厳しく問い正しました。「あたりまえさ! 伊那丸さまのほかにおられるか、誰のためにこんな危ない真似をするものか。おいらもお師匠さまも、みんなあの方を立派に世に出...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第67話

そのせいで徳川勢と武田方の合戦は両軍引き分けになったと聞きましたが、人穴城から追い出された野武士たちは、駿河の方へは逃げられないので、たぶんこちらへ押し寄せてくるでしょう」「えっ、野武士の残党がこっちへ逃げてくるんですか?」「他に逃げ道もな...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第68話

龍太郎はあわてて後ろへ馬首をめぐらし、「待て! 味方だ!」「竹童だ、撃つな!」小文治も絶叫しました。しかし、間に合いませんでした。プツン! と高い弦の音が、はるか遠くまで響き渡りました。射手は名人、矢は鷹の石打ち。ヒューッと風を切って飛んだ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第69話

しかし、彼の軍学も空までは及びません。蚕婆の吹き針もここからは届かず、ただ唇を噛みしめている間に、鷲は一気に裾野をめがけて斜めに遠ざかっていきます。「呂宋兵衛さま、もうこうしてはおられません」さすがの昌仙も少しうろたえて腰を浮かせましたが、...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第70話

しかし、密林の奥で鷲を盗み損ねたうえ、竹童にこっぴどく痛めつけられてからは、もうこりごりだと考えたのです。残りの金で何かうまいものでも食おうと甲府を指して歩いていた途中、ここで見張り役をしていた燕作の目にとまり、引っ張り込まれたのでした。さ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第71話

そのお返しに、こうしてやる、こうしてやる!」もともと石投げの名手である蛾次郎が、邪魔者のいない頭上から狙い撃ちにするのですからたまりません。さすがの燕作も反撃のしようがなく、慌てふためいて竹童の体を横脇に抱え直すや否や、小山の降り口へ向かっ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第72話

五遊星、北極星、北斗星、二十八宿星……その輝きによって北条流軍学の星占いを行っているらしく、昌仙はしばらくして一人で納得すると、元の席へ戻り、呂宋兵衛に向かって離散と逃亡の策を授けました。「では、なんとしても私一人、そなたも一人、他の者たち...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第73話

「あッ――」と、あやうく鉄杖で胴を二つに断たれそうになった佐分利五郎次は、井戸の縁から五、六尺とびのいて、きっ!と見れば、そこにいたのは鎧武者ではなく、黒の染衣を軽やかに着こなし、鼠色の手甲脚絆をつけた骨太い若僧。いま、血塗られた鉄杖をしご...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第74話

ふと見れば、黒百合谷の百合の精か、星月夜からこぼれ落ちた星かと思われるほど、気高く美しい姿です。彼女は手にしていた横笛を、山千鳥が鳴くのかと思うほど強く吹き鳴らしました。「や、や? ……」 五人の男たちが、どうしたものかと進むことも戻ること...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第75話

するとピューッ、ピューッという不気味な笛の音は、たちまち恐ろしい暴風となって、あたり一面の木々の落葉を吹き巻くりました。あれよと見る間に、咲耶子は砂塵を顔に吹きつけられて、「あ――」と眼をつぶされてしまいました。「おのれ!」 きらめく懐剣が...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第76話

その唇へ、白蛇が銀色の鎌首を向けて、緋撫子のような舌をペロリと吐き出します。すると、数十人の美女たちが笙(しょう)を合わせて吹くような、竹林の風――ザザザザザッ……とそよぎ渡ったかと思うと、竹童ははっきりと意識を取り戻し、パッチリとこの世の...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第77話

長年の願いがかなって、さぞ大喜びしているだろう――と思いきや、竹童はすごすごと伊那丸の前から下がり、般若丸の太刀を抱きかかえたまま、人のいない陣屋の隅で、ひとりシクシクと泣きはじめたのです。「はてな……?」龍太郎は眉をひそめて、そっと竹童の...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第78話

命からがら浜松の城下を鷲に乗って逃げ出したのはいいものの、夜に入るにしたがって空の寒さは骨身に染み、腹は減るし、寝る場所のあてはなし。青息吐息の盲目飛行、下手をすれば先生、雲のなかで迷子になってしまいそうです。やはり、名刀・村正の切れ味も持...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第79話

小幡民部(おばたみんぶ)も駆けつける。たちまちのうちに陣々は大騒動となり、大将の伊那丸も幕を払ってやってきたが、閣上の呂宋兵衛は、いちはやく屋根の上へ飛び移り、九輪(くりん)の根元に身をかがめてしまったので、遠矢を射かけるすべもない。「あれ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第80話

これで命も無事だったし、なにか食べ物にもありつけるだろう……」すぐにキョロキョロと見回して、漁師が干していた小魚を見つけると、火で炙ることもせず、引き裂いて食べ始めました。食べながら波打ち際を見ると、黒い蛮衣を着た大男が、小手をかざして熱心...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第81話

ザアッと舷(ふなばた)から二度目の波頭が押し寄せ、鯔を海中へ巻き返そうとしたが、海賊の部下たちはこれこそ山賊の使う蛮流幻術による変身だと勘違いし、我先にと手づかみにしようと競い合った。しかし、死に物狂いで跳ね回る魚は、人間一人を捕まえるより...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第82話

どさくさに紛れて、甲州から信濃の国を我が物にして、こっそり領分を広げてしまった。……だが、ゆくゆくの天下取りは、どうしても秀吉だろうな。北ノ庄の柴田勝家、こいつも指をくわえてはいまい。今に秀吉と、のるかそるかの大勝負だ。……うむ、のるかそる...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第83話

「もし、伴天連さま」きれいな侍女たちが三、四人、駕籠から降りて腰をかがめました。伴天連に化けている呂宋兵衛と蚕婆は、もっともらしく祈祷の手を止めると、「はい、何かご用でござりますかな」「あの駕籠の中においでなされますのは、ご城主さまの奥方、...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第84話

間諜でもないらしい」「かしこまりました」石弥が立ち上がり、一同が散らばりかけたその時です。四十九間の長廊下を、取り乱して駆けてくる人影がありました。小谷の方を先頭に、局や侍女など奥の者ばかりが、それぞれ鞘を払った薙刀を構え、雪洞(ぼんぼり)...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第85話

この分で一晩降り続けば、お宮もすっかり埋もれてしまい、山の木々も二、三尺(約60~90センチ)ほどに小さく見えてしまうかもしれない。「オオ、寒ッ!」 あまりの寒さに耐えかねて、お堂の中から飛び出してきたのは一人の少年だった。寒いはずである。...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第86話

しかし、京都は徳川家の勢力圏ではありません。どうしても羽柴側に手配を頼みたいという懇願です。事件も人物もただ事ではないため、どう返事をするべきか、三人の旗本たちは口々に相談していました。「ふむ……勝頼が、か」 秀吉もこれを聞くと、しばらく目...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第87話

「それとは違って、世にも不思議な噂でござる」 蔦之助は伊那丸の顔を仰ぎ見ながら言いました。「若君、どうか驚かないで聞いてください。その噂というのは、お家滅亡の折、あえなく討ち死になさったと人も信じ、また我々までもが疑わぬ……四郎勝頼さまのこ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第88話

その時、ギュッとひっつかまえてやればいい」「ああ、おいらもそう思って、北国街道から雪の降る橡ノ木峠を越えて、この京都まで来たけれど……まだ鷲の影さえ見当たらないんだ」「そう短気なことを言ったって無理だよ。物事には何でも辛抱が肝心だからな……...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第89話

しかし、言葉は一切かけず、そのままスタスタと通り過ぎていきました。「あいた……どなたですか……ありがとうございました。本当に、ありがとうございました……」竹童は遠ざかる足音に向かって何度も礼を言いましたが、両手で顔を押さえているため、どんな...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第90話

そして菊亭殿の奥のようすをジッと聞きすましているらしかったが、ひろい大殿作りの内からは、あれきり鼓の音も人声ももれてはこず、ただ花橘(はなたちばな)や梅の香に、ぬるい夜風がゆらめくのを知った。二駆けるほどにいくほどに、早足の燕作は、さっさつ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第91話

「策はないか! なにかいい名案はないか!」呂宋兵衛はしばらく額を押さえて考え込んでいましたが、やがて決断したのか、「うむ、どうしても今夜を逃してはならん。昌仙、耳を貸せ……」あの大きな碧い瞳をギョロリと光らせ、丹羽昌仙の耳元で何やら計略をさ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第92話

すると、四人が橋を渡りおえるとともに、いまがいままで、さえざえと夜明けの光をたたえていたあたりは、また、どんよりとしたおぼろ月夜となり、人声や車の雑音もぱったり聞こえなくなった。「や、や? ……」立ちどまっていると、ものかげから、ひとりの男...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第93話

すると泣き虫蛾次郎は、少し気取って例のボロ鞘(ざや)の刀を差し直し、松の小道を通って麓(ふもと)の方へ歩き出しながら、道すがら山椿の葉を一枚もいで唇にくわえ、木の葉笛で調子をとりつつ、妙な歌を叫び出しました。ピキ、ピッピキ トッピッピ竹童ち...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第94話

その二人は、まるで手をつなぐかのように階段の上へ大きく腕を広げると、声を張り上げました。「待て! 酔いどれめ!」「ここを通すことはまかりならぬ!」どちらの声も、迫力に満ちていました。「な、なんだとッ」頭を抑えられた狼のような男たちは、ふんぞ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第95話

若君のお調べに対して、少しでも曖昧なことを言うと、こうして痛い目を見るぞ」 もう一度、ドンと鉄杖を食らわせます。「ううむ、フフフ、痛うございます、痛うございます!」「痛いなら、本当のことを話せ」「も、申し上げます。間違いなく和田呂宋兵衛の手...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第96話

「わあッ、化け物ッ!」 蛾次郎は持っていた芋の串をほうりだすと、逃げるわ逃げるわ、夢中で逃げ出した――一心不乱に、明かりのあるほうへ駆け出した。 夜になっても、今宮の境内はにぎやかであった。 そこで蛾次郎は、はじめてホッと人心地にかえった。...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第97話

あたりをさぐりながら外へ出ると、夜は四更(しこう)の闇の中だが、空には女菩薩(にょぼさつ)の瞳にも似た、うるわしい春の星がまたたいている。 鳥の巣のように乱れた髪、土にまみれた肩や肘、そして血のにじんだ素足――。 それらあわれな姿をさらす竹...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第98話

ずいぶん久しく会わなかったのう」「では、やっぱりお師匠さまでございましたか。ああ、お姿を見たいにも、竹童めは、何の罰でか、このような盲目となってしまいました」「竹童、目がつぶれたことを、おまえはそんなに不自由だと思うか」「はい、伊那丸さまの...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第99話

「なに、人がおぼれていると?」「やッ――また沈んでいった、木隠、木隠、早くこっちへ松明をかざしてみてくれ」「待て、ただいままいるから」と龍太郎は、また二つ三つの岩をとんで、忍剣のそばへ寄っていった。焔を高くささげながら、じッと、あわだつ水面...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第100話

「今こそが大事な時であるぞ」と、私たちのような凡人を鼓舞してくださる教えなのであろう。つまり、予言の裏に隠された真意を汲み取れば、 ――ここで全力を尽くさねば、おまえと父・勝頼公が再会する望みは、永遠に失われるぞ。 ――ここでのんびりと無駄...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第101話

こう気がついたので、蛾次郎も急に足を早めて、今宮神社の境内から天ヶ丘のほうへ歩き出しました。すると、ちょうどそのふもと。南蛮寺(なんばんじ)ののぼりにかかろうとする参道の並木を、忍びやかにいく人影があります。まだ朝もやが立ちこめているので、...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第102話

すぐに追いつかれそうになったのを見て、蛾次郎は驚き、高くそびえる一本の樫の木へ、猿のようにシュルシュルとよじ登りました。木登りは、竹童も得意とするところです。蛾次郎が猿なら、竹童はムササビのように敏捷でした。ピョンと枝へ飛びつくと、もう蛾次...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第103話

「かならず――合図をまちがえてくれるなよ――」くれぐれも言い聞かされた龍太郎の言葉が、空の上なる竹童の耳に、いまもはっきりと聞こえる心地がする。――とその瞬間である。竹童は、すぐ真下の地上に一点の火の塊を見いだした。枯れ草を焼く百姓の野火か...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第104話

こう言われると、呂宋兵衛に従う山犬のような武士たちは、まるで耳の鼓膜を突き抜かれたかのようにたじろぎ、我先にと斬りかかる者はいなかった。「ええいッ、相手はたったの二人か三人だ、なにをもたもたしている! 袋叩きにして、さっさと首をあげてしまえ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第105話

その時、加賀見忍剣は初めて破術の法を思い出し、散魔文の秘句を唱えながら、持っていた禅杖を振り上げ、「エイッ!」と水流を断ち切るように打ち下ろしました。水面を打った法力ある禅杖により、サッと水が二つに割れたかと思うと、散魔文の破術を受けて狼狽...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第106話

どれ、わしもそろそろ鞍馬の奥へ立ち帰ろう」「老先生、しばらくお待ちくださいませ」「……もう一言だけお聞きしますが、居士(先生)が身代わりになって逃がしたというそのお坊様は、いったいどこへ行ってしまったのでしょうか」「おそらく、人間が暮らす騒...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第107話

ましてや今、天下に一寸の領土も持たず、頼れる城も一つとしてない伊那丸にとって、安全な道などどこにもないのです。どうせ敵地を踏むのであれば、忍剣の言う通り、徳川家の勢力が根を張る東海道こそが、小太郎山の砦に最も近く、地形も平坦で分かりやすいと...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第108話

背中の上で二人の童子が互いに斬り合い、奪い合っていた般若丸の切っ先が、誤って鷲のどこかを傷つけてしまったに違いありません。「あッ――」と思う間もなく、虚空の上から絡み合った二つの体がフーッと真っ逆さまに落ちていったかと思うと、琵琶湖の真ん中...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第109話

すると――伊那丸が、「ごめん――」と目礼をして、真っ先に白駒の金鞍にヒラリと乗る。つづいて忍剣と龍太郎も、波に月兎の鞍を置いた黒鹿毛の背へヒラリとまたがると、キッと手綱を引き絞り、互いに振り返りながら、「裾野以来、こうして馬上になるのは久し...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第110話

だがよいわ、まさかに家康の領分まで、その軍兵がくっついてもいけないだろう。」「昌仙――」と呂宋兵衛(るそんべえ)もズルズルと下へ降りてきて、「徳川家へ取り入る算段とは、やっぱり何か、その伊那丸をおとりにして? ……」「こいつを利用しないのは...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第111話

秀吉はそれを試して、滝川一益を手ひどく痛めつけたのだ。「これで伊勢はまずは片づけた。……つぎは柴田権六(しばたごんろく)だな。あいつもそろそろ、熊のように雪国の穴から首をだしかけてくるころだろう……」敵城を目の前にして、野風呂ですっかり体が...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第112話

秀吉の部下を五、六十騎貸し出そう」「いえ、徳川の領地を通るのが恐ろしくて、秀吉殿の侍を借りてきたなどと言われては……」「うむ、それは武士の名折れというものか」「困難は、旅の道中だけではありませんから」「そうだな。天下は暗闇に包まれている――...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第113話

その様子を見ると、彼はしばらくの間、病人となってこの可愛御堂に閉じこもっていたようです。だが、蛾次郎は布団の中に寝てこそいますが、もうすっかり全快した様子で、宮内の顔を見るや否や、ムックリと起き上がりました。そして、「おじさん、ひどいじゃな...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第114話

お粥の湯気を見ると、空腹で喉から手が出るほどだったはずなのに、蛾次郎はプンプンと怒った。「けっ、またお粥かよ、おじさん」「じっとしている間は、まあこれで我慢しなければいけないよ」「冗談じゃないぜ。俺なんて、裾野にいたときから、ずっと奈良や京...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第115話

あたり一面に、雪かとばかり白く散っていた、糸桜の花びらである。花びらの武器? なんになるのか蛾次郎にはわからない。「畜生、少し血が上っていやがるな」と見くびって拾い取った石礫を、ピューッと敵の眉間へ打ち放すと、竹童はすばやく身を沈めて指の先...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第116話

そればかりでなく、今日のような場合でも、腹がたったら独楽で勝った者の言い分を通すなり、あるいは、あやまるということにすれば、なにも掴み合って湖水におぼれるまでの必要もなくなるであろう」 欲しいものは与えられ、しかも愉快な方法を教えてもらって...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第117話

「うむ」 と、卜斎一流の妖気がみなぎる含み気合いでそれをはねのけ、壁ぎわへ身を貼りつけると、「おお、おまえは鞍馬の竹童だな」 と、らんらんと瞳を射て、こちらの影を透かしました。 ハッと思って、竹童は自分の顔に気づきました。卜斎の鉄拳を食らっ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第118話

すると、真っ赤な火独楽は、文字通り一条の火の矢となって、しかもピュッと恐ろしい唸りを上げ、鼻かけ卜斎の顔へ食いつくように飛んでいきました。「おお、これはッ?」と驚いた卜斎。切り下ろした厚重ねの大刀を持ち直す間もなく、火の玉のように宙を舞って...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第119話

鏃師卜斎に姿を変えて、夜が明けないうちに竹生島を出るとしよう」卜斎は陣羽織を脱ぎ捨てると、手早く籠手の具足を外し、脛当ての鎖を脚絆(きゃはん)に変えて、旅の鏃師らしい姿に早変わりしました。そして蛾次郎に、「菊村宮内どのへ、ちょっと暇乞いをし...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第120話

ですがおじさん、この広い原っぱは、いったい何という場所なんでしょうね」と尋ねました。「おまえ、そんなことも知らずに歩いているのか。子供というのは無知なものだなぁ。ここはおまえ、甲斐の武田信玄と家康さまが鎬(しのぎ)を削った有名な戦場、そう、...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第121話

「おお、鷲のごちそう!」と一同に見せて笑わせながら、万千代はその餌を猛禽の鼻先へ持っていきました。そしてくちばしのそばへぶらぶらとさせましたが、鷲は横を向いて、その匂いすら嗅ごうとしません。業を煮やした万千代は意地になって、「こら、食え、食...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第122話

常人には到底不可能なことを成し遂げるために、竹童は心にもない大道芸人の真似事をしているのです。見ている小姓たちは面白がっていますが、竹童にとっては、涙が出るほど切ない芸なのでした。二「さあ、それから、それから!」輪になって取り囲んだ少年たち...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第123話

だから、その顔を好く者は深く親しみ、忌み嫌う者はまたひどく嫌うのでした。家康は珍しく酒宴を開いていました。多くの近侍や旗本を相手に、和やかな座談を楽しんでいます。それが飽きると、鼓の名人である大倉六蔵に鼓を打たせて聞き惚れていました。そこへ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第124話

ただ静かに、月と星が黙りこくっているだけです。ふたたび、狛笛の音が高く澄んで響きました。そして咲耶子が、自分の吹く音色にうっとりとして、周囲のことも忘れかけたその時でした。さらにすさまじい一陣の疾風が、月の光をかき分けて、小太郎山の真上を「...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第125話

いや、たとえ馬と共に血を吐くことになろうとも、それまでに三方ヶ原へ駆けつけねばならぬ!」「おお、もちろんそのくらいのこと、この際なんでもありません! して、着いた時には?」「手段を選んでいる時間はない。ただ群衆に紛れて、一瞬の隙に矢来(やら...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第126話

点々と飛び散った返り血が、まるで夜叉のように彼の腕や袖を彩っています。哀しく静まり返った夕方の雲が、矢来の上におもく垂れ込めて、一瞬、そこを吹く風さえピタリと止まりました。 ああ、ついに間に合わなかったのか。小幡民部、山県蔦之助、巽小文治、...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第127話

「斬られた首が本物の伊那丸なのか、今見ている首が本物なのか、何が何だかさっぱりワケがわからなくなっちまいました」「そりゃもちろん、あっちの連中が偽物だろう」「えっ、どっちがですか?」「矢来の外に立っている連中だよ」「すると、生きているほうの...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第128話

だが、死ぬ前にまだ臣下として残された役目がいくつもあるはずだ。都田川にさらされた御首級(しるし)を奪い返し、清らかな場所へ隠して差し上げること。また、刑刀を振るった菊池半助を討ち取り、龍太郎や忍剣の霊を少しでもなぐさめることも友情というもの...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第129話

渋面を作った呂宋兵衛と、苦りきった菊池半助が、手足をもがれた味方や死骸の中に立ち尽くし、ぼんやりと朝の光を眺めていました。敵はどうした! 敵はどこへ行った!太陽が高く昇りましたが、その行方はついにつかめませんでした。家康の不機嫌な顔が思いや...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第130話

若侍たちは、その親子を容赦なく引きずり回し、大久保石見守が酒宴の真っ最中である庭先へと突き出しました。「なんだ、その薄汚い人間は?」石見守は、近習に酒を注がせながら、とろんとした眼で二人を見下ろしました。若侍は膝をついて報告しました。「こい...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第131話

さあ、一服吸ったら八方へ手を分けて、まず第一に間道らしき洞穴を探してみろ」「へえ、洞穴を」「うむ、洞穴だ! 必ずどこかに頂上へ抜けられる穴口があるはずだ」「そしてそれをどうするんで?」「いずれ要所要所には、石扉を立てたり、岩石や組木を組んで...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第132話

山掘夫たちは、山そのものにもてあそばれてしまったのです!その時、穴に入る前はらんらんと輝いていた太陽は、もう西へ回って、朱色の盆のように赤くくすんでいました。毒水に酔う砦一その高原の一角に立てば、群山をめぐる雲の海に、今まさに沈もうとしてい...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第133話

手元へ引き戻し、穂先を短く構え直した神保大吉は、咲耶子が右へ動けば右へ、左へ動けば左へと、じりじりと追い詰めていきました。その間に、黒川八十松、団軍次郎、その他の者たちが十二本の槍を揃えて、「ドッ」と咲耶子の前後から襲いかかります!ああ、も...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第134話

「水晶! 水晶!紫水晶は お染にやンべお染かんざしに 挿すよにサ黒い水晶は 婆さまにやンべ婆さま磨いて お寺にあげて文殊菩薩の 入れ黒子」「なんだ、あいつは」 と、びっくりして振り返ったのは、別のことでぼうっとしていた金鉱山掘夫や熊蔵たち。...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第135話

竹童(ちくどう)を残して、陣馬ヶ原のお花畑の危険を逃れてきた咲耶子(さやこ)は、砦の奥郭(おくぐるわ)へと飛び降りるなり、狂ったように櫓番(やぐらばん)や武者だまりの侍たちへ声をからして呼びかけましたが、誰一人として「オオ」と返事をする者は...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第136話

八通の間道をさまよって、小太郎山のふもとへ逆戻りをしてウロウロしていた伊部熊蔵と小頭の雁六、そのほかの鉱山掘夫たちを連れて、地脈を探り方向を案じて、ついにこの城塞の心臓部を突きとめてきたのです。「しまった!」 と叫ぶ間もなく、もう見ている間...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第137話

だが空にもクロの姿は見えなかった! 裏切り者の黒川八十松め、あれが自分によって自在に操られる飛行の道具だと知り、逃がしたのだ! 鎖を切って空へ放してしまったのだ。人を呪わば穴二つ。あの猛禽の鎖を切った三人は、立ちどころに、自分たちが放した鷲...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第138話

笛が――咲耶子の白い手に高く掲げられ、横に縦にと動いています。合図なのでしょう!それを見ると、少女の一人が何かを叫びました。それに応えて、あちらこちらの家から、ワラワラワラと少女たちが駆け出してきます。みんな同じ下げ髪の少女、みんな同じ年頃...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第139話

「あッ!」 ドボーン! ……とスイカほどの大きさの黒い物体が落ちた。一度深く沈んでから、ボカッと泡立つ水面に浮きあがってきたものを見ると、それは若い武士の生首だった。胴のない生首は、まるで水中で立ち泳ぎをしている人間のようにグルリとまわって...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第140話

「まだ朝飯が配られませんね」「寝るから起きるまで、食うことばかり言っていやがる」「いえ、私は何ともないですが、親方がお腹を空かせているのではないかと思いまして」「余計な心配をするな」「へい」「それより貴様も谷間へ降りて、なぜ皆と一緒に働かな...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第141話

「おっ、人がいる……」 その通り、人がいます。女性です。とても美しい人でした。琴台(きんだい)の上に乗せられているのは、二本の弦を持つ焼桐の八雲琴(やくもごと)。彼女は心を静めてそれを奏でています。すると、ふいに琴の手を止めて、蛾次郎のほう...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第142話

おとなしくして……」 ふところから刷り物の紙を取り出し、仲よくひとりへ一枚ずつ配ってあげます。見ると、なるほど、子供が欲しがりそうな美しい刷り物です。紫色の地に、金色のインクで地蔵様のお姿が刷られています。そしてその脇には、こんな文句が書い...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第143話

彼は城下の馬場の外れに立って、皿回しの大道芸人の口上を真似し、例の竹生島で菊村宮内からもらってきた水独楽の曲回しをやりだした。不思議な独楽の乱舞を、かれの技術かと目を丸くする往来の人や暇人たちが、次々と銭や拍手を投げる。――蛾次郎はそれをか...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第144話

「あれっ?」独楽を目で追っていた見物たちの視線は、ふわっと宙をさまよった。一番驚いたのは蛾次郎太夫である。「手の内にあるはずの玉を取られた」という言葉通り、彼はパニックになって「おや、コマは? コマはどこへ行った?」とキョロキョロと見回した...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第145話

その少女の話で、前後の事情、裏切り者の毒水の詭計、咲耶子の働き、またそのために捕らわれの身となったことなど、すべて明らかに知ることができた。ただ一つ、わからないのが竹童の行方。これには伊那丸もいたく心を痛めたが、いまは落人同様の境遇ゆえに、...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第146話

それよりは、お前が伊勢参りの道中でさらわれたという、末の男の子を捜し出して、その子を頼りに暮らすのがよい」「はい……ですが旦那さま、そんなことは、とても望めないことなのでございます」「いや、世の中には十年ぶり、二十年ぶりなどで母子が再会した...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第147話

だから、いきなり門から入ることはせず、こっそりと裏へ回ってみたり、壁の板に耳をぴたりとつけてみたり、窓の節穴から中をのぞいたりしてみると――あぁ、天のたすけか運命のめぐり合わせか、寝ているどころか、普段よりもずっと大きな声を出して、あの耳障...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第148話

城内の者ならば、なにも好んであんなところにひそんでいる必要はあるまい。第一、なんだかその影も大人にしては少し小さい。「ははあ」思い当たることがある。奥庭で殿さまが飼っている猿――あの三太郎猿じゃないか。とすれば、抱いて寝てやろうか、あいつは...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第149話

「隠密だ、隠密だーッ! 伊那丸の隠密が入り込んできたぞ! 誰か来てくれッ――」 そこで蛾次郎が大声で叫んだので、竹童はぎょっとして、その悲鳴を封じるべく、思わず脅しに使っていた火独楽を、「こッ、こいつめ!」 と、相手の横顔めがけて叩きつけた...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第150話

(矜羯羅童子、制多迦童子……)一まるで夢のようだった。一瞬の疾風。たしかに竹童の愛鷲クロのようだったが――見間違いであったかしら? 幻であったかしら? ――と、咲耶子はあとの静けさの中で錯覚にとらわれた。しかし、錯覚ではない。いまの名残で吹...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第151話

ではおまえは、お使番になってこの館へ、家康さまの手紙を持ってきたのですね」「少しも早く石見守さまのお手へお渡ししなければ、役目がすみません。宿直(とのい)の方をお呼びするには、どこから声をかけたものでございましょうか」と小姓の星川余一はまた...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第152話

「それ、蛾次郎を生け捕れ!」その中の一人がこう叫ぶと、きらめく小太刀の陣が霜の歯車のように蛾次郎の周りをぐるりと囲み、有無を言わせず、彼を高手小手に縛り上げてしまいました。「やあ、燃え上がったぞ」「遅れては一大事だ」「奥へ、奥へ向かうんだ」...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第153話

「狩谷はおらんか! 狩谷軍太夫はおらぬか!」しかし返事はありません。殿中はただなんとなく騒がしく、じっとしていられなくなった長安は、錠口まで急ぎながら叫びました。「誰かおらぬか! おお、伊部熊蔵はどうした!」呼び立てながら角を曲がると、出会...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第154話

「では、失礼いたします」腰を屈めてスッと下がった老臣の伊東十兵衛は、袴のひだをつまみ上げました。いま、殿の部屋に入る時は脇部屋の外に置いておいた手槍を持とうとして、そこを見ると、あるはずの槍が見当たりません。ガラガラガラと妙な音が向こうへ駆...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第155話

「うーむ、遅かったか!」熊蔵は、余一が泣いているのが馬鹿らしくなってきました。「仕方がない。この上は殿にありのままを報告して、少しでも早く、他へ手配をつけるのが肝心だ」一同が手ぶらで屋根から降りようとした、その時でした。下に待機していた老臣...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第156話

おお、それから鞍馬の竹童も」「えッ、竹童もか」宮内は久しぶりに、あの気に入っていた少年のことを心に思い浮かべました。そしてその竹童も無事にこの館を破って逃げ延びたと卜斎から聞き、敵でも味方でもないけれど、なんとなく嬉しく感じました。虹色の陽...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第157話

男たちは真っ黒になって茶店の入り口になだれ込み、宮内があっけにとられている隙に、床几(しょうぎ)の上に置いてあった地蔵菩薩の笈摺(おいずる)を、ひとりの男が土足でガラガラと蹴り落としました。「ううむ……」宮内の目尻が、怒りで真っ赤に裂けまし...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第158話

そして、百川の末に青々と澄んだ浪華の海には、山陰、山陽、五畿、東山の国々から、寄進された巨材や大石を積み込んだ大名の千石船が、おのおの舳先(へさき)に紋所の旗を立て並べ、満帆に風をはらんで、まるで船の陣形を組むように、四方の海から整々と入江...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第159話

秀吉は、人の考えなどには頓着しない様子で、ますます打ち解けた風に床几を勧め、「ところで、本日はどのような用件で?」「はっ」 信濃守は、よそへ向けていた意識を呼び戻し、「ほかのことではございませんが」「うむ」「詳しくは主人の書状に認めてござい...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第160話

しかし、後の大軍師・幸村も、この時はまだ才蔵よりも大九郎よりも後輩であり、上田城主・昌幸の子とはいえ人質という身分なので、何をするにも肩身が狭い思いをしていました。 大九郎は大酒飲みで、道中も時折、源次郎に世話を焼かせて手を焼かせました。 ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第161話

見物客にまじってふらりとやってきた三人は、結局のところ、木の下にござでも敷いて一晩明かすほかなさそうでした。三 登山口の手前にある御岳の宿場町も、明日から三日間続く山上の盛大な催しを見ようと、諸国や近郷からやってきた人々で埋め尽くされていま...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第162話

「おやっ、あの子は」お時は、手の内から玉を奪われたように呆然として失望しましたが、その目の前に、すぐまた同じような少年が一人、月ノ宮の境内から勢いよく駆け出してきました。「――蛾次だ!」石の狛犬のそばに立って、背伸びをしながら、逃げた者の後...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第163話

ほんとに瓜二つじゃ、あんなによく似た子供が、どうしてわしの子でないのかしら」「いやいや、子どもの顔はすぐに変わるもの。似ているというものは、あまりあてになりませんよ」「でも、なんだか、あのふたりのどちらかは、わしの子にちがいないような気がし...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第164話

しかし、築城家のほうはどうだろうかと鼻かけ卜斎が目を凝らし、呂宋兵衛は法術部を気にし、菊池半助が同じように忍法部の試合相手の名を眺めているのは、当然の人情というものでした。その忍法部に署名されているのは――百地流  霧隠才蔵(浪人)魔風流 ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第165話

これが待ちに待った三番太鼓だと知ると、御岳広前の紅葉の間に真っ黒にうずくまっていた数万の群衆が一斉に「ワーッ」と声を上げました。しかし、さすがは霊山の神前、それも厳粛きわまる武神武人の大行事です。おのずと人の襟を正させ、一瞬の後には、まるで...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第166話

天目山や仙元峠などから一目で見通されるような縄張りはせぬ!」鼻かけ卜斎は、流れるような弁舌でとうとうと一気にまくしたてました。卜斎の素性を知らず、彼をただの鏃(やじり)鍛冶だとばかり思っていた大久保長安の家来たちは、あまりの雄弁さに少し呆気...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第167話

小幡民部は相変わらず表情一つ変えずに眺めており、伊那丸も冷静そのものでしたが、騒がしいのは竹童です。「強いなあ、才蔵さまは本当に強い。あれは福島市松の家来で、おいらはあのおじさんを知っているんだ! あの人と話したこともあるんだぞ!」と、一人...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第168話

それどころか、広い試合場の地面や人々の顔の上を、その巨大な影が太陽を遮るたびに通り魔のように横切っていたことさえ、全く知らずにいたのでした。地上の人間が、ただ「あれよあれよ」と泡のように沸き立ち、どうしていいか分からず右往左往しているのに対...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第169話

近くの控え所に詰めていた典医(お抱えの医師)たちは、何が何だか分からないまま、しきりに呼ばれる声に薬箱を抱えて人だかりの中へと駆けつけました。しかし、その典医たちが到着するよりも早く、鐘巻一火が門下の壮士一隊を従えてそこへ飛び込んでいきまし...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第170話

それを浜松城へ突き出す罪人などとはとんでもない誤解、どうかその婦人は我らの方へ引き渡してほしい」(こやつ、狂人に違いない)石見守は相手にせず、一火に向かって言いました。「いい加減にせよ、こうして手間取っていては、肝心の試合の進行が遅れるばか...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第171話

一同を眺めると、ニコニコとして迎えながら、「失礼だが、お祝いに一献まいろう」と、忍剣へ茶碗を持たせて、酒の入っているらしい壺を取りあげました。「や、これはかたじけないが、自分は見ての通り僧形の身、幼少から酒の味を知ったことがない。兄貴、かわ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第172話

ご本名を記していただかないことには、諸侯の控え所へ伝令を出すこともできませんし、奉行としても役目上、試合を命じるわけにはまいりませぬ」「どうしよう、忍剣(にんけん)」と、龍太郎は、隣にいる忍剣に相談を持ちかけました。「そうだな。我々はどんな...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第173話

半助の姿はますます加速していき、ついには小姓たちの目にも、遠くから眺めている人々にも、それが半助なのか、一枚の黒い布がつむじ風で回っているのか、ほとんど目にも留まらないほど迅速になりました。そして、すべての者の視線が奪われている間に、今まで...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第174話

耳を聾せんばかりのどよめきが、土用波のように見物人たちを揺り動かした。何かを罵るような声、嘲笑するような怒号が、嵐のように彼を取り巻いた。「遠矢一本試合、徳川家・加賀爪伝内殿が的を射抜いたり!」鐘巻一火が、検証の床几から叫んだ。意外な結果で...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第175話

それにも飽き足らず、最後に、まるで喉笛でも締め付けられたかのように、竹童の体を抱えていた蚕婆(かいこばば)が手を離すと、竹童はグッタリと地上にうつ伏せに倒れてしまいました。「ふん……」とせせら笑いながら、「婆、こっちへ入っていろ」一方の幕を...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第176話

――とすれば、同時に遠矢の勝敗も歴然と分明いたすことになる」二名案でした。それはよかろうということで、すぐさま紛糾は解決しましたが、ここにまた番組変更のやむなき事態が起きました。そこへ徳川家の侍が飛んできて、「例の老女修道者でございますが、...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第177話

一方、急いで駆け抜けていった小文治は、やがて道が狭まるにつれて、樹木や蔓草(つるくさ)に馬の足が邪魔をされ、次第に立場が悪くなってきました。 この早駆け勝負の前に、奉行の方から「騎乗は自由」と言われていたので、当然、馬で通れる道だと考えてい...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第178話

「俺が早駆けに勝ったところで、今日の勝負は五分五分だ」と、燕作はすっかりやる気を失ってしまいました。と――下の方から、巽小文治が息を切らしながら登ってくる姿が見え始めました。「ええい、来やがった」燕作は先に着いていながら、まごまごしてしまい...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第179話

嘆かわしいが、天の巡り合わせというもの、まことにどうしようもないことよ」と、空を仰いでそう言いました。(ああ、悠長な……)小文治が言葉を挟もうとすると、そこをまた遮って、「伊那丸君にもよく伝言をしておいてくれよ。よいか、ますます自重するよう...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第180話

これはどうしたものか」両者の間に立って、彼が途方に暮れて腕組みを固く結んだその時、「いや、しばらく!」一党の人々を押しなだめて、そこへ出てきたのは遠駆け試合の当の本人である巽小文治でした。黒々とひと癖ある顔を並べた先方の者たちをじっと見回し...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第181話

そうして鐘巻一火(かねまきいっか)の控え場へ、凱歌を奏して引き返してきたのはいいが、あれほど争奪の焦点となっていた、肝心の咲耶子その人の姿が、いつの間にか失われていた。門人たちは驚いて、「たった今まで、ここで手当を受けて静かにもたれかかって...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第182話

忍剣はいま、さながら羅刹(らせつ)であり、夜叉であり、奸譎(かんけつ)な非武士の卑劣を憤怒する天魔神の姿だった。普段は無口で、伊那丸に対しては柔順であり、友情にもろく、小事にこだわらず、鉄杖に殺風を呼ぶことも滅多にない男である。しかし、いっ...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第183話

連帯責任として伊那丸たちが垢離堂に監禁されたのを見て、あれほど騒ぎ立てていた徳川家の侍たちも、いくぶん溜飲が下がったのか、死骸を片付け、血が流れた場所に砂を撒き、大講会のために建てられた屋舎を壊すと、夜明け前には一人残らず御岳の山から下りて...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第184話

クロハワタシヲコイシガッテイマス。ワタシモクロガコイシクテナリマセン。民部サマカラ若君ヘ申シアゲテクダサイマシ。ワガママナコトデス』置手紙には、竹童の文字でこう書いてあった。「彼のことだ。それなら案じることはない」むしろ一党の人はそれで愁眉...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第185話

今朝のここは、まさに楽園です。神木の上に縛り付けられている忍剣を除いては、すべての生き物にとって、天国そのもののような秋の朝でした。そこへ――。のんびりとした鳥や獣を驚かせるような、人間の口笛が下の方から聞こえてきました。これもまた、晴れや...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第186話

彼は目がくらんでしまいました。ただそこに大きな楢(なら)の木があり、断崖の空間に向かって枝を曲げていました。バリバリと音を立てて、蛾次郎は幹を這い、その横枝へと移りました。しかし、そこもホッとするような安全地帯ではありません。血眼になった竹...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第187話

神官たちはにわかに相談して、その善後策に沈鬱(ちんうつ)な空気をつくった。「夢にも知らぬご無礼、深くおわびをしたら、お咎(とが)めもあるまい。このうえは、一刻も早く、あの垢離堂から社家(しゃけ)へお移し申し上げ、また、付人の忍剣とやらの神縛...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第188話

そなたもその仲間に混じって、領土を争うだけの武門として終わるつもりか。わたしは、そなたの将来を見込んで、願いたいことがある。よく考えてほしい。今は天下にとって大事な秋(とき)なのだ。そなたが、失った甲斐の領土を取り戻し、甲斐源氏の家を再興し...
吉川 英治

初級翻訳・神州天馬侠 第189話

地蔵行者の菊村宮内は、その奇跡について、竹生島(ちくぶじま)に伝わる独楽(こま)である「火独楽」と「水独楽」をそれぞれが懐に入れていたおかげだと言い、その由来を詳しく話して聞かせました。本来であれば、蛾次郎は泣こうがわめこうが、ここで侠党の...
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